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ペトロの第二の手紙3章8節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年9月29日
  • 読了時間: 3分

今日のデボーション箇所のみことばは好きな一つだ。

一瞬、儚く感じるみことばだが、「千年は一日」「一日は千年」という時空のないこのみことばに〝永遠〟を深く感じる。


「神には時間の概念がない」という。初めてそう聞いた時、驚いたものだが、よくよく考えてみると、時間の概念がなくて当然だ。時計という目盛を作り出したのは人間なのだから。


筆者先生は言われる、「悪魔は木の良し悪しとその実を問うてくる」と。

その通りだ。何かある度に「私はこうして良かったのか」とか「相手のためを思ってはっきりと語ったけれど、その言い方で良かったのか」とか「良い知恵が与えられたけれど、それを伝えてよいものか」…等々、悪魔はああだこうだと問うてくる。

そして、そうした問いの究極は、「お前の思っていることは聖霊からくだされたものではないかもしれない」である。

――悪魔が神から離そうとする瞬間である。


先日あるアメリカドラマを観た。神から啓示を受けたキリスト者の男性が、大罪を犯したり、悔い改めを繰り返しながら、殺人の犯人を追跡・制裁するというものだ。

麗しくないシーンもあるため、クリスチャン的には「観ないほうがいいよ」と言いたいドラマだったが、ただ一つだけこの男性に感心した部分があった。

それは「神に従う行動」である。人間の目から見ると明らかに間違っている行動(時には犯罪に繋がる行動)であっても、彼は節々で神の導きを見つけ、それに従っていく。周りは敵だらけになり、孤立もしていく。けれど、彼は、今の自分の行動は人間的には間違っていても、神の長いご計画の上では正しいことだと知っている。


私たちは常日頃、神の視点というのを見失ってしまうことが多い。「神がどうされたいのか」ではなく、「自分はどうしたいか」というところに視点が置かれることが大半だろう。

最近関わっているクリスチャンのコミュニティーでもそういうことが見え隠れしている。「私たちがどうしたいか」というところに思いが行き過ぎて、「神はどこに導いておられるのか」という将来的な部分に目が行かず、今の自分たちの快楽的な目的を良しとする流れがあり、そこだけを求めている。

もちろん、神の視点を私たちごときがすべて見尽くすことはできないのだが、できない中でも、神の視点に思いを置くことならできると私個人は思っている。

筆者先生が言われるように、「神の平安は山のような不信仰があっても溢れるものであり、再臨の時に主が私たちの心を支配される時に明白になる」のだから、今現在は、神の視点に思いを置くだけで十分この地上を悪魔に問われることなく、生き抜くことができるだろう。


一日は千年のようで、千年は一日のような時空のない「神の永遠」というところに視点を置くならば、木の良し悪しも、実の良し悪しも、全ては神の御手の中であるのだから、聖霊を疑わず、周囲が敵だらけになっても、神からくだされた物事や知恵を現していくのがキリスト者ではないかと思う。


私の勇気は、神の勇気である。






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