top of page

マタイによる福音書11章25節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年1月5日
  • 読了時間: 2分

聖書は最近では色のついた表紙のものもありますが、大抵の場合は黒い表紙で、私は子供の頃、その黒い表紙の印象から、聖書は魔術の本だと思ったことがあります。そして、それは触れてはいけない恐ろしいことが書かれていて、普通の人は触れても読んでもいけない気がしたものです。


でも、聖書が黒い表紙である理由は今も分かりませんが、その闇のような黒さの表面の中身には”キリストという光”があることを知りました。

光はことごとく白いものですが、白さは黒さを知ってはじめて私の目に白く映り、それが白だと認識できるのだと分かりました。

人生の闇も同じことかもしれません。苦痛や艱難、誹謗中傷がある度に「なぜこんな目に遭うのか」と思いますが、それがあるからこそ、平安や喜びが訪れた時、自分にとって必要な闇であったと知ることができると思うのです。


また、そう神様から諭されたことを聖書を通して知るためには、今日のメッセージにあるように、幼子キリストの心という宝にあずからなくてはならないと思います。

単純に素直にシンプルに――幼子とはそういう者で、そういった心があれば、それは言動にも現われ、知らない内に神様の栄光を現わすことに導かれるように思います。

そこには、あらゆる技術も、知識も、虚栄も無く、幼子のようにあるがままの自分に戻れるように感じます。


自分がみずぼらしく、弱く、何も素晴らしくない、何も賜物がないと思える黒い表紙のような気持ちの時も、キリスト者には内なる聖霊という光る宝が自分の体に宿っていることを忘れないでいたく思います。




コメント


bottom of page