マタイによる福音書11章28-30節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年5月19日
- 読了時間: 2分
今日のデボーションは、『幸福になるには』という誰もが求めているテーマ、そしてよく教会説教で取り上げられる聖書箇所からいただいた。
筆者は4つの条件を取り上げて、幸福への導きを諭している。どれもこれもとても素晴らしい条件だと思う。
私個人として、これら4つの条件の中で一番難しいかもしれないと思うものは、4番目のような気がする。
「決して諦めるな」と言われても、人生が大変長いと感じている時には〝挫折〟というものがやって来る。人間は誰もがオリンピックアスリートのように強い筋肉と精神力を持っているわけではない。年が重なり、体が衰え、それと共に精神も引きずられるように衰える時、希望であったはずのものは、どうでもいいものになってしまったりすることもあるだろう。
そういった時に、「イエスだけを見つめていれば大丈夫」と言われても、「まぁ、そうかもしれないけれど…」と神よりも他のものに心を留めるように自己処理をしてしまうこともあるかもしれない。
幸い、私は今までそういった思いに駆られたことはないが、これから先、そういった思いが全く来ないと言う保証はないと思っている。それだけ人間はとても弱い生き物だと私は思っている。
そこで、私がいつも思うのは、「諦めないためには目標を定めないこと」が大事だと思っている。
例えば「イエス様はいつ来られるのだろうか」と再臨に目標を定めると、なかなかやってこられないイエス様に多少のつぶやきも出たり、携挙までの間に「イエス様の再臨は気休めじゃなかろうか」というような猜疑心まで湧いてくるかもしれない。
けれど、「イエス様の再臨は、来るか来ないか誰も分からない」と目標を定めず、ぼやかしていると、「イエス様が来ても来なくても、イエス様を知っていることだけで、この地上で十分、幸せだからいいじゃないか」となる。生きることは、真面目に生きることも大事だが、大らかに生きることの方がもっと大事ではないだろうか。
信仰に根性論は不要だ。私たちは、何かと頑張って信仰の道を歩もうとする。「頑張らなくていいんだよ」と互いに励ましあったり、説教で諭されていながらも頑張ってしまう信仰が素晴らしいと思ったりしてしまう。
けれど、目標に向かって、根性丸出しで神の定める道を歩むよりは、目標はぼやけているが、豊かな思いで神の道を歩むほうが、幸福を掴みやすいのではないだろうか。
神に向かって、「必死」ではなく、「笑顔」で幸福をつかんでゆけるものでありたいと思う。






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