マタイによる福音書5章48節
- Gates to Devotion

- 2022年1月11日
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更新日:2022年1月28日
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
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このみ言葉のような理解は、詩篇と箴言にも見られます。
「完全」だと言える人がいること、そして神に仕えるための条件は「完全」な歩みをすることが述べられています。
この真理を曖昧にさせるものは、私たちに害を及ぼすものとなります。
しかし、これをどう理解したらよいのでしょうか。
神によってと但し書きがあるものの、自分の歩みが神の歩みと同様に完全であるなどと、どうして言えるのでしょう。
ダビデは不倫と偽りの罪を犯し、法的にも殺人者だったのに、そんなことが言えるでしょうか。
ダビデは神が自分の歩みを完全にされると語っていました。
ダビデは、自分は何事においても正しいと述べていたわけではありません。
完全な誠実さをもって神に仕えることができるように神がしてくださったと語っているのです。
ダビデは卑しい心や偽りの心をもって神に仕えているのではなく、ただ神のみを思って仕えているのです。
ですから、ダビデの行いに欠けがないのです。動機と目的の点で可能な限り最高の状態なのです。
欠けのない献身と従順による生き方は、必ずしも完全な行いであるとは限りません。
完全な行いをもって生きることを妨げる要因は無数にあるでしょうが、聖書の言葉によると、神の前を完全に歩むことは全く可能です。
実際、聖書は、これが神に仕える者の最低条件であるとさえ語っています。
私たちは完全に行うことができないのは明らかです。
そうすると、ここで問題になってくるのは神の行いそれ自体についてではなく、神の行いがどのような姿勢でなされているかです。
神は完全です。
つまり、神は偽りや自己充足から行動していません。
ですから、私たちもそうあるべきで、そのように生きていくことができるのです。






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