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マタイによる福音書9章27-31節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年9月21日
  • 読了時間: 4分

更新日:2023年9月22日


今日の箇所のテーマは「叫びの祈り」であった。

祈りは切実であればあるほどその効力を発揮すると私は常々感じているし、実際、切実に祈った答えは、恐ろしいほど即効に神は答えをくださる。

「神によく思われよう」という思いが微塵でもある祈りや、儀式的なルーティーンとしての思いが入った祈りなどであると神はその祈りを、お聞きにはなっても横に置いてしまわれる。


「祈り」というと、「静かに心を整えて」とよく教会でも言われることだし、そうすることで平安に導かれた祈りもできる。

しかし、本当に苦難の中にいる時、私たちは「静かに心を整えて」などできるだろうか?

心の中は嵐のようになり、抱えている難題をどう解決しようか、どのように折り合いをつけたらいいか等、外見は祈りの姿勢をとっても、胸の中ではあれやこれやと難題に心を奪われてしまい、その嵐を鎮める力をも持たない弱い私たち人間が、すっぱりと心を切り替えて、静かに祈ることなどできないのが普通であろうと思う。

そして、人生の内の大半が、そういった揺れた祈りの状態であることが多いかもしれない。


今日のデボーションでの聖書箇所に登場する盲人は、そういう点で、実に素直に主に訴え叫んだと思う。その願いは、心底、切実だったからである。


筆者である牧師先生のゴスペルを歌われているご友人が「美声ではゴスペルにならない」と言われたのは、その通りである。

ここで言われているゴスペルというのは、いわゆる「ブラック・ゴスペル」を指している。ゴスペルには何種類かジャンルがあるが、その中でも黒人のゴスペルは有名であり、ゴスペルを歌うことに憧れを持つ者の登竜門でもあり、クリスチャンでなくても、ゴスペルというと黒人ゴスペルだということを知ってるほどだろう。

クラシックの歌い方をマンツーマンのレッスンで習得した者(集団レッスンでは完全に習得したことにならないためこう書くが)は、声の出し方は基本的にゴスペルと同じではあるが、その先にある声の作り方が全く違うので、長いことクラシックを歌ってきた方であればあるほどまず基本からやり直しとなるし、時間も要するため、大抵の方はそれが出来ずにゴスペルを諦め、歌わなくなることが多い。

また、リズムの点でも、クラシック出身者はグルーヴ感を出せずに苦戦するだろう。


しかし、そういった歌のテクニカルな部分というのは、ある意味、どうでもいいことである。若干技術的に大変ではあるが、クラシック・ボイスでゴスペルが歌えないわけではないからである。

では、なぜこのご友人が「美声ではゴスペルにならない」と言われたのかには、もっと別の理由があると感じる。

それは、この方の人生の根本に「本当の心の貧しさがなかった」からである。


「叫び」や「訴え」というのは、切実さがないと腹の底から出てこない。

その切実さは、心の中の思いの根っこにある飢えた貧しさがないと発生してこない。異常に喉が渇いた時にゴクゴクと水を飲みたい、飲まなければ死んでしまう!という切実さがないと訴える叫びの祈りは生まれない。

牧師先生が書かれているように、黒人は差別の中で生き抜いてきた。その差別は現在も続いている。彼らの思いが行き着く先は「平等」である。この地上で平等は造り難いから、平等を与えていただける神に叫び訴えるのである。

このご友人には、そういった切実な、腹の底からえぐり出てくるような心の貧しさがなかったのである。だから、綺麗におさめてしまう声や歌になってしまい、ゴスペルという賛美になっていなかったのであろう。


その聖なるすまいにおられる神は

みなしごの父、やもめの保護者である。

詩編68:5


神は、なぜみなしごややもめを完全に保護されるのであろうか。

ここでいうみなしごややもめは、私のように実際に、この地上でみなしごややもめである者はもちろんのこと、もっと広い意味で、すべての人間ひとりひとりの「心のみなしご」「心のやもめ」のことを指しているのであろう。

みなしごややもめの共通点は「独り」という貧しさである。

しかし、この貧しさは、神に叫ぶ祈りの技術を連れてくる。〝お綺麗さま〟でない信仰を連れてくる。だからこそ、神はみなしごややもめの切実な祈りを聞いて全面的に覆うのである。


私たちはとかく、〝きよさ〟に憧れ、「正しく、清純であらねば」と思ったりする。そして、それが信仰者としてあるべき姿だと思ったりする。

しかし、私たちは、罪赦されたとはいえ、原罪を背負った人間だ。どれだけきよく、正しく、美しく…をモットーとして生きようとしても、結局は、美しいリボンや包装紙で包まれた箱ではあるものの、その中身を開けてみたら腐った果物が入っていた…というような卑しく貧しい存在である。

だからこそ、神が共におられる。

そして、心底、訴え叫んだ祈りにしっかりと、即効でお答えくださる。


今日も貧しいゆえの神の豊かさの中で生きられることに感謝したい。




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