マルコによる福音書10章45節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年1月29日
- 読了時間: 3分
今日は、所属教会での教理の学びからのデボーションです。
「謙遜」とはどういうものなのかと、時々、思いを巡らします。
私は長いこと「自分には謙虚や謙遜というものはない」と思っていました。非常に好奇心が旺盛なので、色々な物事を積極的に行う私は、「謙遜」とは無縁だと思っていたのです。
逆に、口数が少なく、おとなしい方たちは、実に謙遜な方たちだと思っていました。
私のような積極的な性格の人々には、「謙遜」がないのでしょうか。
今日のこの箇所を読んで、ほんの僅かですが、私にも「謙遜」があることに気がつきました。
イエス様は、その身を私たちの罪のために犠牲にしてまでも愛してくださった――これは究極の謙遜であるのだと分かりました。
「謙遜」とは、「After you(お先にどうぞ)」のような精神や、「いえいえ、私なんて…」のような消極的に後ろに下がることではなく、積極的に他者のために仕え、その身を犠牲にすることだと思いました。
その定義でいくと、御奉仕というのは、謙遜の表れのひとつだと感じます。実に微力で、ほんの僅かな御奉仕ですが、私はそれをさせていただているので、私の中にもちっちゃな、ちっちゃな謙遜が存在しているのだと思いました。
また、ある牧師先生のこんなお話を思い出しました。
その先生は、教会の近くに住んでおられますが、教会は鍵をかけずに開放しておくのだそうです。早朝から開放し、教会での礼拝・集会などが終わると夕方には自宅に戻りますが、鍵は開放したままにするのだそうです。当然、先生がいなくなると、教会は無人になります。
都会のど真ん中にある教会なので、無人の教会にぽつぽつと誰かが入ってきます。先生が自宅に戻る際、会堂で誰かがおられると、「22時には鍵を閉めに来ますからね」と言って、仮眠も兼ねて自宅へ戻るのだそうです。
以前は、物騒なので無人教会にすることをせずに、どなたかがおられると、ずっと先生も教会に居残ってその方が帰るまで付き合ったそうですが、心を病んでいる人だったりすると何時間も話に付き合わなくてはならず、「こんなに長いこと会堂にいられたのではこちらの体がもたない」と思い、夕方には丁重に(?)追い出していたのだそうです。
けれど、ある日、気持ちが変わったといいます。
神にすがっている人をこちらの都合で追い出していいのか――
無人の教会の会堂におられる人々は大抵の場合、ホームレスだったり、行き場のない人々で、社会からつまはじきにされている人々を教会も社会に倣って追い出してはならない――
けれど、年齢も重なっていく自分の体も大切にしなければ、創造してくださった神様に申し訳ない――
そこで先生は、「教会はキリストのものだから神が守ってくださる」と、神様に委ね、教会に鍵をかけない無人の時間帯をつくられました。
22時に鍵をかけに戻ると、まだ誰かがおられることがあるそうですが、そういう時は声をかけずに、その方が帰られるまで教会内で雑務をして帰るまで時間を潰すのだそうです。
そういった中、救われる方も出るといわれます。
その話をお聞きした時、先生はご自分の生きている時間を貧しい方たちのために犠牲にされておられるのだと思いました。天に宝を積んでおられるのだと思いました。
先生は積極性の塊です。でも、イエス様の十字架の謙遜に倣っていると、「積極性+謙遜」のコラボが大胆な伝道へと繋がっていくのだと感じました。
イエス様の受肉の謙遜に心から倣い、積極的に仕える者となれるよう祈りたいと思います。






コメント