マルコによる福音書12章1-11節
- Pastor

- 2025年7月26日
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そこでイエスは譬で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だたきにし、から手で帰らせた。また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。
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主イエスは、このたとえにおいて律法学者、パリサイ人のことを厳しくとがめているが、現代のわれわれにとって他人事(ひとごと)とは言えない。われわれは神によって生を与えられ、神によって必要が備えられ、危険から守られ、生かされている。にもかかわらず、われわれは自分独りで生きているかのように思っている。そうしたわれらの姿が、この悪らつな農夫の姿に重ね見るのである。立派なぶどう園を貸してくれた農園の主(あるじ)に、当然のこととして収穫したものの中から、地代を払うべきなのに払おうとしない。それどころか、地代を受け取りに来た僕をはずかしめ、殺した。主(あるじ)は自分の息子ならば敬ってくれるだろうと考え、彼を遣わしたが、「こいつを殺せば、土地は自分たちのものになる」と目論んで殺した。なんと強欲で、悪らつな人たちだろう。われわれも神に生かされている者として、神に課せられた責任と仕事があったはずなのに、ただ自分の利得のためだけに生きてきたのではないか。神に生かされているのに、神の存在すら認めようとしない。このような私たちに対し神の容赦のないさばきが下され、即座にわれらのいのちと生活を奪い去られても、「神は何故こんな目に合わせるのか!」と神に訴えることはできない。捨てられた石が隅のかしら石となった。主(あるじ)が送った自分の息子がキリストにたとえられている。律法学者、パリサイ人らが十字架にかけた主イエス・キリストがわれわれを罪と滅びから救うのである。「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)。主を畏れることこそ、人としての本分である。






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