マルコによる福音書15章21節
- Pastor

- 2025年8月8日
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そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。
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東京聖書学院で教鞭をとられた千代崎秀雄先生は、エルサレムに一ヶ月間滞在し、ヘブライ大学で聴講し遊学された。その時、ゲッセマネの園で捕縛されて後に、主イエスが引き回され歩かされた足取りをたどり、自身の足で歩いたという。ゲッセマネから大祭司カヤパの家に行き、最初の裁判を受け、それからカヤパの後継者アンナスの家にも連れて行かれ、総督ピラトの所へ死刑執行のために引き渡された。ピラトは傀儡(かいらい)政権のヘロデ王に送り、再びピラトの下に引き戻された。これらの所々を主は縄で縛られ、引き回されたのである。距離と高低差が半端ではなく、それだけで息が切れ疲労困憊したという。その上、一睡もせずに裁判を受け、判決が下されると、茨の冠をかむせられ、その上から葦の棒で打たれ、背中をむちで打たれた。傷口に荒削りの十字架が喰い込んだであろう。十字架を負いきれずに倒れたのも当然のことである。
主が十字架を負いきれないことを知ったローマの兵士は、通行人であったクレテ人のシモンにこれを負わせた。シモンとしては、当座は「とんだ災難」ということだったが、ここに彼自身の名が記され、しかも、アレキサンデルとルポスとの父と記されている。二人の息子は、名の知られたクリスチャンであったようである。主の十字架を代わって負うことによって、彼は主を信じたのである。彼だけでなく、息子たちも救いにあずかった。無理やり負わせられた十字架であったが、だれよりもそば近くに受難の姿を見、その息づかいを耳にし、シモンは主を信じたのである。主に負わせられた災難は災難で終わらない。それを祝福となり、救いに変えられる。






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