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マルコによる福音書16章4節

  • 執筆者の写真: Gates to Devotion
    Gates to Devotion
  • 2023年10月2日
  • 読了時間: 2分

ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。


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日曜日ですが、夜が去り朝がやって来るのを待って、主イエスの墓に出掛けたのでした。

でも、そこにはとても難しい問題がありました。墓の入り口に置いてある、あの大きな石をどうするかということです。女の人たちは3人いました。マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメです。

この3人の女の人たちの力では、とてもそれを取りのけることはできません。

ですから、3人はこのように話し合っていました。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」


私たちにも、似たようなことが時に起こるのではないでしょうか。主イエスのために何かをしたい、隣人のために何かをしたい。でも自分には、自分たちには、とても力がない。どうしたらよいのか。そのような時に、私たちはそこでもうあきらめてしまうこともあるのではないでしょうか。「とても無理だ、やっても出来ない、何をやっても無駄だ」。


でも、この3人の女の人は違っていました。墓の入り口の大きな石を自分たちの力で取り除くことはできないと分かってはいました。それでも、出かけて行ったのです。それは、向こう見ずの信仰ではないでしょうか。それが不可能に思えたとしても、主イエスに対する止むにやまれぬ愛によって彼女たちは押し出されたのでしょう。

そのように踏み出した時に何が起こったか、聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」。思ってもみなかったこと、考えてもみなかったことが起こったのです。神が、働いてくださり、助けてくださった。奇跡が起こり、困難は取り除かれたのです!

聖書には、「ところが、目を上げて見ると」、と書いてあります。主イエスに香油を塗りたい心があっても、それが実際にできるかしら、と悩んでいたと思います。ですから、うつむいて、まだ外は暗くもあったでしょうから足元を見つめ、内なる気持ちもそれと同じように暗くなって歩いていたかもしれません。でも墓に到着すると、「目を上げて見た」のです。

「目を上げて見る」ということは、自分自身や自分の困難な状況から目を転じて、神を見上げるということを示唆しているのではないでしょうか。そのようにした時に、彼女たちは驚くべき出来事に出会ったのです。何と不思議なことに、墓の入り口に置かれていたはずの大石は取り除かれていたのです!

なんと、助けは人間の側からではなく、神の側から到来したのです!




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