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マルコによる福音書16章4節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年10月2日
  • 読了時間: 4分

神の側から助けが到来するーー

「祈りが聞かれた」とか「恵みが与えられた」などというフワリとした表現ではなく、実にダイレクトな表現だと思う。そして、聖書の神は、空の上で優雅に人間を見守っているのではなく、〝動く神〟であることを改めて知らされた。


3人の女性たちのキリストへの真っ直ぐな想いは、個人的に大変共感する。そこに疑いという雲がない。とても私ごときが烏滸がましいが、まるで自分を見ているようだ。

私はキリスト者になった後も無意識のうちに大量に罪を犯してると思うが、それでも「私はキリスト者として失格だ」と自分を追い込むことがないのは、キリストという神しか見えてないことが多いからだと思う。

私はいつも「私に何が出来るか、出来ないか」ではなく、「神が私に何をさせるか、させないか」で動いている。夜、眠れないことがあっても、「今夜は神が特に私を必要とされているのだ」と思って、神を想って共に起きている。次の日はつらいが、そういったつらさの中に新たな神の囁きが聞こえてくる。


先日、私の言った言葉から「神さまに対する畏怖が伝わってくる。み言葉への信頼も。」と信仰の心友から言われた。

「畏怖」というのは、「単に怖がるというだけでなく、自然や神仏など、人間の力が遠く及ばない存在から、不気味な威圧感などを感じ取り、恐れおののく様子」と辞書にはある。さすがに〝不気味〟とは全く思わないが、私は神の巨大さを感じた経験がいくつかある。それは恐ろしいほど神に飲み込まれるような種々の経験である。幻的なものもあるが、ほとんどは霊的ではあるが現実の出来事だ。


3人の女性たちは今日のデボーション箇所のみ言葉の後、天使にキリストの復活を告げられ、8節では「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とある。


そう、その通りだ。

幽霊を見たような、そんな怖さでは全くない。あまりの神の巨大さ、偉大さに、どのように表現してよいのか全く分からない...そういった怖さである。だから、彼女たちが〝人には何も言わなかった〟のも、内緒にしたいなどということではなく、畏怖を心底知ったのだと思う。


彼女達のように真っ直ぐにキリストだけを見続けていると、"もれなく"この畏怖の経験がついてくる。この畏怖が「こんなものだよ」と言葉で表現したくても、言葉という小さすぎるものでは言い表せない。だから、神の巨大さを感じた畏怖の経験をここに記載したくても、彼女達同様、言葉が見つからないために「人には何も言えない」のである。


筆者先生は、どんな時も神を目を上げて見ることで、神からの助けがあちらからやって来ると締めている。

その条件は、この女性たちを通して考えると、「真っ直ぐにキリストだけを見続けること」と、「神への畏怖を常に感じること」であるのかもしれない。

考えてみると、私はこの2つの条件を満たしていて、だからこそ、様々な重荷の出来事があっても、まるで電車の中で通り過ぎる景色を見ているかのように、重荷の出来事が通り過ぎて行き、私の心には何一つ、その重さが残らないのである。なんと幸せなことだろう。


でも、誰しもがそういった条件に満たされているわけではない。また、誰しもが強い信仰を持っているわけではない。ぃや、強い信仰を持っていない人のほうが大半かもしれない。

誰もが他者の顔色を見ながら過ごし、誰もがキリストを真っ直ぐに見ているつもりが、キリストがお立ちになっているその向こうにある自分に関わる好ましくない出来事や重荷や人々を見ていることが大半かもしれない。そして、出来る限り、面倒なことは避けて、トラブル無く過ごそうとしているだろう。

けれど、神の指し示す真実がそこにあるのなら、キリストがこの愚かな私のために死んだのだから、神の指し示しにお答えしようと私は思うのである。そして光が多く当たっている者ではなく、光が多く当たらない者と共にあって、手を差し伸べていこうと思うのである。


今日も実に心は健やかで、私は多くの光をいただいている。分け与えるよう神が静かに導いている本日である。




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