マルコによる福音書16章6節
- Pastor

- 2025年8月14日
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するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。
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週のはじめの日の早朝、婦人たちは主イエスの亡骸に香油を塗るために墓に出かけて行った。そこで彼女たちが見たものは、墓石が除かれ空になった墓だった。そこに御使いが現われ「イエスはよみがえって、ここにはおられない」と告げた。主イエスの復活である。この復活が、私たちとどのような関わりがあるのか?キリストがよみがえられたということは、キリストが死の内側に入り込み、ちょうど内部にダイナマイトをしかけ粉みじんに爆破するようなものである(第一コリント15:55)。それ故、復活のいのちの力によって、死は私たちに対して無力なものとなったのである。キリストは、「初穂」(同15:20)として復活された。復活とはどういうものなのか、その見本となられたのである。主の復活は体の復活である。今の私たちの体と何ら変わらない姿でよみがえったのである。ただ違うところは、それは「栄光の体」(ピリピ3:21)であって朽ちることのない、時間と空間に制約されない体だということである。復活の事実は、弟子たちですら、知らされても信じ得なかった。私自身も信仰告白した時点で、どれほど復活を信じていたかは疑わしい。しかし、牧師として葬儀にかかわりキリスト者の死に立会う中で、臨終の安らいだ顔に天国の輝きを見、彼らの生きた証言によって復活の信仰は培われてきたように思う。主の復活によって死は無力なものとなり、死の脅威と恐怖は消え失せた。だから、この地上にあって主のわざに全力で励もうと思う(第一コリント15:58)






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