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ヨエル書3章10節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2024年1月2日
  • 読了時間: 3分

新年二日目のデボーションでは、「強さ」がテーマとなっている。

弱い者にどのようにしてあげるべきかは、このヨエル書のみ言葉がはっきりと語っており、私はそれをいつも実行に移している。

その一方で、それを維持することの難しさも知っている。


自分で言うのも何なのだが、私はキリスト者としては強い方だと思う。通常、経験しないであろう人生を歩んできた中で、多くの人々に出会い、そこから多くの辛酸を舐めてきたからだ。ゆえに、他者の顔色をうかがわず、長いものに巻かれず、一挙手一投足すべての中にいつも神を探し、求め、見つけ、神と語っている。私は一信徒であり、説教者でもないし、またそういった立場になることを求めたことも、許されたいとも思わない。けれど、私は神の強さを人より多くいただいている方だと思う。

その理由は、神の強さをいただけるように常に求め祈っているからだ。

神は求めない者には多くは与えない。強いない神だからだ。でも、求める者には多くを与えてくださる。


筆者である牧師は「私たちは無意識のうちに自分は弱い……という教えを互いに与え合っている」と語っている。その通りだと思う。

最近の日本の風潮も「頑張らなくていい、人間は弱いのだから」というのがある。確かに私たち人間は誰もが弱さを抱えている。「自分はだめなのではないか」「自分は不憫な人生だ」など言い出したら切がないほど弱音を言う。

けれども、ここで筆者が言っている「弱さ」というのは、心や体が弱いことではなく、悪魔に対して弱いことを指している。


悪魔は様々なささやきを私たちに囁く。時には神の振りをして囁く。

どんなに完璧に見えるキリスト者でも悪魔に対して強くなければ、あっという間に心の根底にある嫉妬や高ぶりに身を委ねたり、呟きに口を使ったりしてしまう。これが集団になるとリンチと化してしまう。これらに無意識の内にはまってしまったら悪魔の思う壺というわけだ。


何といっても〝無意識の内〟にやってしまうことをどう避けたらよいのかと思うが、答えは簡単だ。

常に僅かな物事の中にも神を求め、見つけ、神と語り、悟ることだ。


『だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。』

第一コリント10:31


神は年中無休だ。一秒も神を忘れないでいると、自我が登場する場がなくなってしまう。それによって、悪魔が入り込む隙がなくなるのである。

また、それだけでなく、それを繰り返していると、悪魔が入り込もうとしている姿を見極めることができるようになる。

このようなプロセスを経て強くなると、今日のデボーション箇所であるみ言葉『弱い者に勇士だと言わせる」導きができるようになる。もちろん、その時に自分は犠牲になっていることが多いが、誰かが高められるならば、それでいいではないかと私は思う。

なぜなら、それはキリストの生き方であるからである。


『主は富んでおられたのに あなたがたのために貧しくなられた。それはあなたがたが彼の貧しさによって富む者になるためである。』

第二コリント8:9


キリストの似姿に少しでも近づけるように、また神の品性を少しでもいただけるように、人の謙虚さではなく、神の謙虚さをもって今年も神に導かれ、努力をし、他者を生かせる犠牲を払える者とされたいと願う本日である。





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