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ヨハネによる福音書15章2節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年12月31日
  • 読了時間: 3分

今日のデボーション箇所では、「神のわざはどのような方法なのか」と言うことに触れている。

単純に言うならば、私たち人間は作業する前に「この先こんな風にしよう」と思って作業をするため、将来どうなるかというのが分かるわけなのだが、神のされる作業は、私たちからすると、そのわざの最後まで行かないと、私たちには理解できないということである。


私はよく思うことがある。それは「なぜ今私はこの立場に置かれているのだろうか」という思いである。

〝必要とされたら、出来る限り答える〟というのが私の人生のポリシーであるがゆえに、自分の思いだけで物事に関わるのではなく、神の思いが加わって関わっていることが多い。

それならば、私が神の言うことだけ聞いて、全く自分が望まないことに関わっているのかというと、そういうことはまずない。「関わってもいいかもしれない」と少なからずどこかで思っていて、神が「それならば」と私を道具としてお使いになるのである。


物事に関わっている間は、「多分私はこういった目的で関わらされているのだろう」とは思うものの、どこか霧に隠れたような部分があって、「確実にこの目的である」とはっきりわかるわけではない。「とんちんかんなみ言葉を送られたなぁ」と思って関わっていることもある。

けれども、どこか霊的な部分から霧が晴れるような感じになると、神は私にみ言葉を送ってきて引き際というのを教えてくれる。

その時初めて、「ああ、私はこの目的で神の道具となっていたのだな」とハッキリとわかるのである。


今日のデボーション箇所のみ言葉の別訳では、

『実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます』

と書かれている。

本体である木を良くするために、無駄と思われる枝を刈り込むわけである。


では、この刈り込まれた枝はその後どうなるのであろうか。そもそもこの枝は無駄だったのだろうか。刈り込むほど無駄であれば、何でもできる神なのだから、最初から無駄な枝など育てさせなければなければよかったのではないか。

聖書には、刈り込んだ枝のことは書かれていない。


けれど、私たちは、実生活の中で刈り込んだ枝をどうするかを知っている。

私たちは、刈り込んで出た枝を焼却する場合もないわけではないが、大抵の場合、それらを薪にしたり、ウッドチップなどのマルチング材にしたり、また梱包材の一部である

緩衝材にしたり、その枝がまだ碧いと接木をして新しい命を増やしたりしている。無駄なものは何一つないのである。

人間の私たちですら、刈り込んだ枝の使い道を考えるのであるから、まして愛の神である御方が刈り込んだ枝の使い道を考えないわけはないのではないだろうか。

神は、木本体そのもの以上に、その本体を生かし続けた枝のことも絶対に忘れていないのであると思う。


神の道具というのは、この刈り取られた枝になった者であると思う。

1つの場所に遣わされ、枝となり、木本体が育ち出すと役目を終え、今までの役割の考えや方法を消し滅びさせ、次の場所で別の考えと方法を与えられて、その場所での力となったり、起爆剤となったりするのである。

キリストの公生涯もそのようであったと思う。キリストは一カ所にはとどまらず、いろいろな場所で奇跡をされ、父なる神の存在を証明し続け、今や全世界でキリストが生きておられる。キリストは時に大きな力となったり、人の目からは不必要に思える起爆剤となったりしているのである。


来年はどのような役割が与えられるのだろうか。

わくわくしている大晦日である。







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