ヨハネによる福音書4章23-24節
- Gates to Devotion

- 2023年3月4日
- 読了時間: 2分
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
*******
祈りとは、キリスト教の礼拝では新鮮な呼吸です。み言葉を通した神の啓示に対する人間の応答です。
礼拝での祈りはどこまでも共同体的な行為であり、キリストの体としての教会全体の奉献です。教会を更新させる恵みの手段で、日ごとに私たちは祈りを通して神によって新たによみがえるという力の表現でもあります。
多くの人たちは、礼拝での個人の祈りと共同の祈りとの紛らわしさを経験しています。このような紛らわしさは礼拝の儀式的流れを困難な状態にしてしまうこともしばしばです。
それが礼拝での祈りであれ、複数の奉仕者同士の話し合いなどの場での祈りであれ、教会内でされる祈りは、個人の行為ではなく、集合体としての行為であることを私たちは理解しなければなりません。
よって、教会内でされる祈りは、常に代表的な祈りでなくてはならず、祈りの核心を正しく理解して祈りに努めなければなりません。
自由祈祷においては、聖霊の恵みによって祈りをささげるべきです。
自由祈祷は自発性という長所をもっていますが、自分の気分によって祈ってしまうという短所もあります。すなわち、客観性が破壊され、牧師・信徒に限らず度を超えた説教的な傾向になってしまうこともあります。祈りが形式的に神に対してささげられるようでありますが、実際においては会衆に向かって祈ってしまう場合があるのです。
ゆえに、自由祈祷での祈りの真の意味を破壊しないように、しっかり理解して祈る必要があるのです。






コメント