ヨハネによる福音書7章38節をいただいて(「教理の学び」から)
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年5月2日
- 読了時間: 5分
今日のデボーション箇所は、教会で教えていただいている「教理の学び」の抜粋箇所である。三位一体の聖霊についての学びが与えられた。
以前に、「聖霊を感じられない」という姉とお話をしたことがある。姉は信仰歴も大変長く、私などは頭が下がるほど、その姉は敬虔なキリスト者である。祈りの文言も素晴らしく、神の品性が育まれてきたのがよく分かる。聖書だけでなく、信仰に関する書籍も山ほど熟読しており、罪びと代表のような私からすると、本当に尊敬できるキリスト者で、大好きな方である。
その姉が「聖霊を感じられない」と何故言われるのか。
しかも、別のある姉が言われるのには、姉の「聖霊不感」の状態はもう何十年も前からあるのだそうだ。
ある時、その姉と私は交わりのおしゃべりをしていた。
私が「これも聖霊が働くとこんな風になるのですよね」と私の実体験をお話しすると、彼女は「私は聖霊に働きをしてもらったことは一度もありません!」と目を丸くして私に訴えた。
私はつい笑ってしまった。姉が「私は聖霊に働いてもらってない!」と公言した瞬間の、彼女の聖霊の驚きまくった御顔...「え!?ちょっと待って、わたし、ちゃんと働いてるから(泣)」という聖霊の御顔が一瞬見えたからだ。
姉は教会生活において大抵のキリスト者がやっていることを全てやっているにもかかわらず、それが聖霊の働きによって自分が動いているということを分かっていなかった。
けれど、深く話しているうちに、事態はもう少し深刻であった。彼女が何十年も前に神の救いを受けているにもかかわらず、真の意味で救われていないことが分かった。
姉の信仰生活は、礼拝も、聖書通読も、祈祷会も、賛美も、ご奉仕も、あらゆる教会生活において、「これらをするのが〝正しいキリスト者〟である」という独自のルールを無意識に確立して行っているのだということが分かった。これによって、教会は義務や生活ルーティンの一つになってしまっているのだ。
私個人の考えであるが、私たちが正しいキリスト者であるかどうかは、私たち自身が決めることではなく、神ご自身がお決めになることだと思う。罪を犯さないように、また正しくあろうと、石橋を叩き過ぎて、肝心の石橋を割ってしまっては、神への道はかえって閉ざされてしまう。キリストから自由を与えられていながら、自分で自分をがんじがらめにする律法をわざわざ作る必要はないと思う。
そういった姉の無意識な外的敬虔と、キリスト者としての独自の理想の在り方が一種の壁となって、聖霊の働きやそこから来る喜び・満たしを遮断し、ダイレクトに感じることができないのである。
しかしながら、聖霊を必ずしも感じる必要はないと思う。聖霊がうちに宿っておられるのだからこそキリスト者なのだから。
私はこの度の学びの中にもあったエゼキエル40〜47章によって受洗を決めた。
教会に通い出して半年ぐらいしたときに、私はある夢を見た。水と緑に溢れた大理石の宮殿のような大変素晴らしい場所を神と思われる御方と一緒に歩いている夢である。水はあちらこちらに光りながら小川のように流れており、暑くもなく、寒くもなく、全てが純白だった。その御方は私としばらく歩くと、私の足元に大量の水を流し、気がつくと、私はその水に押し流されて、地上という砂漠の上に落とされていた。(それが私がこの地上に生まれた瞬間だと分かったのはずっと後のことである。)
上を見上げると、その御方が「行っておいで」とはっきりと御顔は見えないが手を挙げて言われた。私はその瞬間、自分は神からいただいた使命があることがわかり、その使命は自分の想像もつかないようなものであり、すべては神のために動くものであるということも悟った。
夢から覚めると、今思っても後にも先にもこれだけ号泣したことがないほど私は泣いた。
それは救われた涙でも、地上に落とされた涙でもない。
「神が私と共にいる」ということを確実に実感した涙だった。
エゼキエル書のこの箇所はエゼキエルがヴィジョンを見た箇所なわけだが、私は当時、聖書は四福音書を美味しいところ取りでしか読んでおらず、旧約は読んだことが一度もなかった。
夢から覚めて、私は聖書をあさった。夢で見たことが本当なのならば、私が夢で見た場所は聖書に必ず書いてあるはずである。もし書いてなければ、私の見た夢は、単なる夢であり、ファンタジーの世界であるのだから、信じるどころか、無視すべきだと思ったのである。
ところが、無視どころか、その場所はエゼキエル書の40章以降にあった。
私がその夢によって洗礼を受けたいと願った時、当時の牧師先生方はただ黙って受け入れて下さった。その訳は、当時、既に召天された兄弟姉妹に数人だけ〝不思議な御手で救われた人〟と先生方が呼ばれる方達がおられたからだと思う。人間には理屈や知識で割り切れないことが時々起こるのだということを先生方は知っておられたのかもしれない。
こういった私の例は、ある意味、特殊な例だと私は思っている。
水が聖霊の満たしを意味するのだと知ったのは後のことだが、その意味からすると、私は生まれながら聖霊をしっかりと感じられる賜物をいただいて生まれてきたのだと思う。
この賜物のおかげで私は罪びとでありながら自分の聖霊をしっかりと感じ、聖霊と語らうことができ、兄弟姉妹の聖霊の働きもよく見える。(先の姉にも「姉の聖霊は働いているから大丈夫」とお伝えできた。)
また、教会内の霊の動きも読み取ることもできる。
この賜物を生かして、神の御計画通りに仕えてゆける者でありたいと思う。






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