ヨハネの第一の手紙4章16-18節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年3月21日
- 読了時間: 2分
自分が今まで経験したことのない悲しみや苦しみは、なかなか理解できないものだと思います。例えば、隣人が悲しみや苦しみの中にある時、同情することはできても、共感することは、自分にその経験がないとなかなかできることではないように思います。「あなたのために祈っていますね」といっても、自分の胸を叩くほどに共に泣き、共に苦しんであげる事は難しいことだと感じます。
そんな時、「実に自分には隣人に対する愛が全くない」と感じてしまうことがあります。「なんて冷たい人間なんだろう」と自分のことを責めてしまうこともあります。
けれど、このデボーションの筆者は、「クリスチャンは神と隣人を完全に愛しきることが可能である」と み言葉から語ります。
「可能である」という言葉に非常に救われます。
「可能である」ということは、「今はできなくてもよい、将来できればよい」ということです。
神は、私たちが何事も最初から完璧にできるとは思われていません。でも、私たちの中に「必ずできる」という可能性を見出してくださり、私たちの将来に期待をしてくださっているのだと思います。
その期待は、私たちの年齢には全く関係ありません。若い者でも、年老いた者でも、神様にとっては、年齢の数よりも、その人に神が与えた個性や賜物をどのように豊かに用いるかというところに期待をしてくださっているのです。
隣人の悲しみや苦しみに心底共感できなくても、共感して差し上げようという思いが、いずれ神の力によって心底共感できる者と変えられてゆくのかもしれません。
自分に愛が足りないと思う時も、足りない部分は神が補ってくださり、間違いなく私たちは完璧な神の子の道を歩むのだと思います。 私たちを変えてくださる神に期待し、変えられてゆく自分にも期待をして、健やかな心で隣人を愛し、明るい信仰生活を歩みたく思います。






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