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ローマの信徒への手紙6章4節

  • 執筆者の写真: Gates to Devotion
    Gates to Devotion
  • 2023年2月15日
  • 読了時間: 3分

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。


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「洗礼」とは「洗う礼」と書きますが、実は洗礼式は「洗い流す儀式」ではなく、自分の過去を葬っていただき、新しいいのちに復活させていただく儀式です。


私は17歳になった翌年の2月に外国人宣教師から洗礼を受けました。入院していた結核療養所でキリスト教に出会い、その療養中でのことで、洗礼式は全身を水に浸ける浸礼という方式でした。

ところが、「この寒い時期に、結核患者を水につけるのは危険である」とドクターストップがかかったのです。困った教会は一計を案じ、温泉旅館を借り切って、温泉で洗礼式をすることにしました。そのことを話すと大抵の人は驚き、かつ笑い出します。なんとなく洗礼式と温泉とはミスマッチに思えるのでしょう。しかし、これは私が意図したわけではありませんので、いかんともしがたいものでした。


おかしな顛末はそれに留まりません。洗礼を授けたのは宣教師ですが、説教を担当したのは、まだ洗礼を授ける資格のない日本人伝道師でした。資格がなかった分、彼は張り切ったのでしょう、長々しい説教をしたのです。私はその間、温泉に浸かっていなければなりません。だんだんとお湯でのぼせてきてしまいましたが、どうすることもできません。長い説教の後、頌栄と祝祷でやっと洗礼式が終わり、立ち上がった途端に貧血を起こして気絶してしまいました。


気がつくと、畳の部屋に寝かされていて、教会員たちが心配そうに覗き込んでいました。私が意識を取り戻したのを見て、口々に喜んでいるようでした。ところが私はというと、自分の身に何が起こったのかしばらく分かりません。少しずつ意識を取り戻したのですが、鮮明に目に焼き付いているのは、なぜか天井板の節穴だったのです。意識を取り戻していく間、その節穴を数えていました。私にとって、まさに洗礼が「死んでよみがえる」儀式になってしまったのです。そして天井の節穴は、天上をのぞく節穴でもあったわけです。


思い出すと、おかしさがこみ上げてくる私の受洗物語ですが、今では私に似つかわしい出来事だったと思っています。若くても、年老いていても、生き直しが赦される人生を私たちは約束されています。気絶から目覚めて見上げた天井板の節穴は、本当に天上に通じる節穴だったのです。


「真剣に生きる」とは「深刻に生きる」ことではありません。節穴のおかしみ、そのおかしみがもたらす緩やかさ、遊びがあってこそ、真剣は持続可能になります。深刻な真剣さは持続できません。困難に直面し、追い詰められたような思いになった時、私はなぜか、この洗礼式の後の気絶からの目覚めと、心配そうに覗き込む教会員の顔と、そしてその向こうに見えた天井板の節穴を思い出します。そして、そのおかしみによって深刻回避の心境を取り戻すのです。




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