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ローマ人への手紙5章5節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年5月4日
  • 読了時間: 4分

今日のデボーション箇所は、「希望を持って生きる」について学ばせていただいた。

「希望」は本当に良い言葉だ。


私はよく「ポジティブなんだね」と言われる。ポジティブ…とても元気の出る言葉だと思う。そして、この楽天主義と希望主義が入り混じったような言葉は、多くの意味を含んでいるとも感じる。


実は私は全然ポジティブではない。かなり神経が細かいところもある。過去を振り返って、後悔で落ち込んでしまうこともある。

けれど、ある時、それらの私の思いは、神を知るためのちょっとしたアクセサリーとして私に与えられたものだということを悟った。他人には言えないほど大変な目に遭った過去もある。今 現在も、家族のこと、自分の体のことなど様々な問題を私は抱えている。それを他人に話せばとても驚かれてしまう状態ではあるが、私はそれを公言することはまずない。それは、苦しいことも、悲しいことも、重荷になることも、全てが私に与えられている恵みの一部だと私は思っているからだ。

なぜなら、今日のデボーション箇所に登場している偉大な霊的リーダーたちのように-----私はそれらの素晴らしいリーダー達のようではないが-----今まで自分の人生を自分で牛耳ろうとしたことがないからだ。


先日、ある姉が私に尋ねた、「今、何してるの?これからどうするの?」と。私はそれに対して「うん、しばらくね、充電してそれから次かなぁ」と笑顔で答えた。彼女は、私の経済的なことを心配してくださったのだろう、そんな状態で大丈夫なのかというような不安そうな顔をした。

私は小さい頃から「自分は食べられなくなる」とは一度も思ったことがない。これから年がたくさん重なり、仕事もできなくなると、誰もが普通、どうやって食べていこうかと考えるだろう。けれど、私は何も心配していない。本当のところ、現在、私には将来豊かに暮らせるようなお金は一銭もない。ある意味、教会への献金どころか、明日の食料をどう得ようかと悩まなければいけないような状態にある。

けれど、私は〝何も心配をしていない〟。

その理由は、心配をして一日過ごすよりも、神様に全てをお委ねして、前を向いて笑顔で歩んでいくことが、つまるところ、神のお喜びになる方法であり、そして、神様がお喜びになるということは私を養ってくださる道を時にかなって、分相応に与えてくださるということだからだ。

現在、悩みの中にあったり、苦しみの中にあったとしても、それは次の必要が満たされるための前触れであるから、喜んで悩みも苦しみも受けるべきだと私は思っている。それが聖書の契約の神なる御方がされる方法の一つであり、自分にとって好ましいことも好ましくないことも全て受け入れられない、または委ねられないということはまだ自我に齧り付いているということだと私は知っているからだ。


もし、私が水一杯も得たくても得られない経済状況になり、みすぼらしい場所で餓死したとしたら?-----私の周囲の方たちが時々、私の顛末として想像されることなのであるが-----私の中ではその想像はあっという間に払拭されてしまう。 その時は、〝神のとき〟、つまり産み落とされる前の場所に戻れる時、神とたった二人になれる喜びがやって来た時だ。(ハレルヤ!)

私は、こういった希望のハッピーエンディングを心底信じ、つかんだまま離さないでいるから、悪魔が持ってくる苦しみや悲しみとは実に無縁なのだ。

真に、「神を信じて希望を持つ」ということは、「解放」を意味するのだと思う。


わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

ピリピ4:12-13


もし誰かが大変な苦しみの中にあっておられるのであれば、私はただ黙って祈るだろう。

その祈りは「その方の苦しみや悲しみを取り去ってください」という祈りではない。なぜなら、その苦しみや悲しみがその方の次の喜びにつながるために神から与えられている可能性があるからだ。もしそれらが取り去られてしまうのであれば、神がくださる次の本当の喜びをその方は得られないことになってしまう。悲しみや苦しみが神から来ているものなのか、悪魔から来ているものなのかを判断する正しい力は、私たち人間には与えられていないと思う。

ゆえに、私がそういった方たちのために祈る言葉はただ一つだ、

「その方が自分に起きている苦しみや悲しみに目を向けるのではなく、神のくださる希望に目を向けられますように」

苦しみや悲しみが悪魔からであろうが、神からであろうが、神にだけ目を向けていれば、間違いのない道へと指し示されるはずなのだから。






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