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ローマ人への手紙6章6節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2024年6月20日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年9月14日

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。


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三浦綾子という今は亡きクリスチャン作家がいた。今も読み継がれ、彼女の本をとおしてキリスト信仰に導かれた人は多い。妻もその一人である。その三浦綾子のデビュー作が有名な『氷点』。たびたび映画となりドラマとなって話題となった。氷点とは水が氷となる温度をさすが、彼女は「われわれのうちに氷点がある」と言う。その氷点とは、凍りつくような冷徹な心をさす。この時から、彼女の著作の一貫したテーマがあった。それは「原罪」(original sin)である。最初にこれを唱えたのは、古代カトリックの教父アウグスティヌスである。それは、人間のあらゆる罪の根源となる罪をさす。その原罪は私たちの心の奥に根ざし、私(エゴー)と原罪は渾然一体となっているのである。だから、人は魔がさして罪を犯すのではない、犯すべくして犯すのである。誰もが ―たとい聖人君主と言われるような人であっても― 原罪と一体となっている。日本には古来、みそぎ、はらいがあるが、人の穢れは水で洗い流せるものではない、はらって落とせるものではない。そのような人類を、神はどのようにして人を救おうとされたのか?それがキリストの十字架である。十字架の一般的な理解は身代わりである。私たちが受けなければならなかった罪の刑罰を、キリストがあの十字架の上で受けてくださったということである。しかし、キリストの十字架にはもう一つの重要な意味がある。それは罪からの解放である。罪から完全に切り離されることである。それが、ここに書かれてある「古き人がキリストと共に十字架につけられる」ことである。「古き人」とは原罪と一体となっている「私」である。それが十字架につけられて共に死ぬのである。その時、原罪も死ぬ。人は原罪から解放されるのである。それで終わりではない。一旦死んだ「私」が、今度は原罪ではなく、キリストとつながれてよみがえるのである。ここに、人間の完全な救いがある。わかっていてもやめられないのが罪である。ゆるさなければならないとわかっていても、人をゆるすことができない。しかし、十字架に共につけられた以上、もはや私たちは罪の奴隷ではない。




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