ローマ信徒への手紙9章30節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年9月24日
- 読了時間: 4分
更新日:2023年9月25日
本日のデボーション箇所は、「存在を認められないで私たちは生きて行けるのか」ということがテーマになっている。
「義として認められる」ということは、「自分の存在を認められる」ということだと筆者である牧師先生は指し示してくださっている。
私は長年、エンターテイメント、特に音楽業界というところに身を置いてきた。よほどでない限り、音楽の世界で生活を確立していくことは非常に難しいため、副業もいくつか持っているが、キャリアという部分では音楽が一番長い。だからやはり、副業の世界に長期間身を置くことは非常に難しく、水に合わないことも多く、一番長い音楽の世界が自然体で居心地が良いのである。ある意味、神が与えて下さった業界なのだ。
さて、音楽業界、つまり、人前に出ることを仕事とする世界に入ると、「認められる」と言うことは非常に重大なことなのだ。他人から認められれば、次の仕事はやってくる。他人から認められなくても、実力があればそれなりに仕事は来る。そういったことを繰り返しながら、プロフィールというものが書き上がっていく。このプロフィールは、非常に営業力が強いため、プロフィールが立派であればあるほど、次の仕事は大きいものがやってくる。それは会社員の履歴書より似て非なる強力なものである。
エンタメ業界では、業績=存在である。「福音はその2つを区別しなさいと言っている」と牧師先生は書かれている。エンタメ業界はこの2つを分離することが非常に難しい。なぜなら、経験した仕事以上に、自分の存在そのものが商品であり、業績にダイレクトにつながるからである。
今日、教会の礼拝で、聖歌隊が歌われた。私はサポーターで歌わなかったが、皆さんはとても一生懸命歌われて、ほんとに良かったなぁと思った。
終わった後に、数人の方から「なんで歌わなかったの?歌って欲しかった」と言われたが、私は「代表賛美もするしね、もう今までも十分に色々と歌ってきたから」と答えたら、「代表賛美をしても歌えばいいのに」とのこと。時々でも練習に参加していれば出たほうがいいと思っているのかもしれないし、このように私のような荒削りな者でも必要として下さるのは実に有難いが、私はそこまで欲張りではない。
教会という場所は、すべての信徒が喜びを持てる場所でなくてはならない。キリストの贖罪愛によって、その存在を認められるだけでなく、様々な奉仕活動を通して、良い意味でサムエルみたいに「私はここにおります」と顕に神に応えられるという場でなくてはならないと私は思っている。つまり、すべての信徒に平等に自分の存在を現す場があり、目に見える形で認められるべきだと思っている。
だから、教会だけでなく、他の場でもそうだが、他者を生かせると思った時、私は「私だけが認められればいい」という思いは全くわかない。神から出ろと命令が下れば出るが、選択を私に任された時は大抵私は裏方に回る。
本物は、出ろと言われれば表舞台にも出るが、裏方にも十分になれる人間でないとプロではない。逆に言うと、「出たくて仕方がない」とか「認められたい」「私は他者よりできる人間」、はたまた「誰かを超えたい」と思っている内はアマチュアである証拠であり、筆者先生の言われる「幹」、つまり当為命令の下で業績主義に留まってしまっていると言える。
私はキリストの無条件の愛をしっかり実感できている。
なぜ正々堂々とそう言えるかというと、私は人生のうちで3回も贖われているからだ。洗礼を3回受けたという意味では全くない。
1回目は捨てられた私を育ててくれた養父母に。
2回目は私の自立の翼を全面的に救ってくれた夫に。
3回目は救いと恵みを下さったキリストに。
キリストの無条件の愛を、小規模な話ではあるが人間からも受けたことがあったから、キリストの愛がそれ以上であるのならば、それは本物に他ならないと私はよく知っている。キリストの贖罪愛が、単に聖書の中のお伽話でないことをよく知っている。
だからこそ、筆者先生が言われる「自然体」で私はいつもいられるのである。人前で失敗があっても立ち直りが早い。体の調子が悪くて上手く歌えなくてもまた歌える。
それは、私はキリストの無条件の愛を、私を認めてくれる愛をよく知っているからだ。愛されている余裕があるゆえに、全てのことに対して解決が与えられることを知っているからだ。だからこそ、ダメな時があっても、そういう私であればあるほど神に近い自然体でいられるのだ。
毎日の神からの存在の無条件認知に感謝して、私だけの花が咲けるように祈っていきたい。






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