創世記49章9節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年10月4日
- 読了時間: 3分
面白いものである、今日はデボーション箇所をいっぺんに二箇所も与えられた。一箇所は創世記49章9節、もう一箇所は『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。(マルコ16:15)』である。
私はよく神から伝道命令が下る。一つ目は、このように文章を書くことが幼い頃から好きであるからかもしれない。二つ目は、多少の緊張は伴っても、基本的には失敗を怖がらないタイプのためか、人前で物怖じをあまりしない精神が与えられているからかもしれない。三つ目は、とにかく子供の頃からよく神に話しかけるからかもしれない。
よく人は、何か凄い物事や才能がこの人にはあるなぁと思うと、「あなたには賜物があるね」と言うわけだが、〝目に見える出来る事〟など私には全然重要ではない。世の中には上には上がおられるし、たとえ自分が凄いことが出来たとしても、そんな自分に全く興味もわかず、また褒められたとしても御礼は述べるが褒められたことに対して自分の感情にピンと来ることもない。その理由は、何よりも神の素晴らしさには敵わないからである。
それなので、もし私に賜物があるとすれば、上記の三つだと思っている。
キリスト者には二種類の人々がいると思う。
まずひとつは、外よりも内の不変に心を向ける人々。もうひとつは、内よりも外の広さに心を向ける人々。
教会の中をザッと見回すと、外よりも内に心を向ける人々の方が圧倒的に多いと思う。我が教会であるなら95%がそうであろうと感じる。つまり、神と面と向かった時、共に戦うというよりは、神からの保護を求める、神との受動的な関係を求める人々が多いというところに目が留まる。それは、高齢化のためであるように思う。歳が重なれば、戦いたくても、気力も体力も内向きになるのは当然だし、不変は平安に繋がるし、これは神が下さった自然の姿であるのだから、それはそれで良いと実に思う。
けれど、教会の存続ということを考えると、そうも言っていられないと感じる。信仰は行いではないが、信仰の成長が進めば進むほど、信仰を聖なる行いで示していく思いに駆られるようになる。それが伝道になっていくのであろう。
けれど、外よりも内に心を向けている人々には、次世代が引き込まれる何かを生み出すことはほぼ不可能といっていい。なぜなら、自分達の信仰を貫くことで精一杯ゆえに、次世代が何を求めているのかが見えないからだ。
伝道をするには、たとえ自分が地獄に落とされても、救いを剥奪されても、他者を救おうとする犠牲的精神がなければならないと常に思う。自分の信仰を貫くことで精一杯の人々が他者の犠牲になることは難しいだろう。
どのように神は私を広い場所に押し出してお遣いになるのだろうかと楽しみにしている今日この頃である。






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