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箴言15章15節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年10月12日
  • 読了時間: 2分

このような取るに足らない者である私が、神に愛されていのである――


今日のデボーションでは、この一言に尽きる。

私はよく人から「ポジティヴだ」と言われる。外見はそうであっても、中身はいつもそうであるとは限らない。大変な事があったりすると(大半の場合、その〝大変な事〟というのは家族のことで、仕事や他者との人間関係ではないことが多い)、心身ともに疲れ果て、ネガティヴな心に支配されてしまう。

けれど、そういう時も人から見ると「ポジティヴ」なのだ。

母はよく私に電話をしてくるが、彼女が言う私の電話の出方は「いつも朗らかで元気」なのだそうだ。


私はどんな時も、無理してでも笑顔でいるようにしている。(私が朗らかそうに見えない時は疲労して眠い時だけだ、肉体は弱いのである)

すると、不思議な神の御業が起こる。内側が悲しんでいても、外側が幸せな振りをしている内に、その〝振り〟がいつの間にか祈りに変わって、神によって本当に幸せに満たされるようになるのだ。つくっていた笑顔が本物に変わる。

神が私のつらさや悲しみを覆い隠して、消してしまう。


本当の幸せというのは、神と結託して生み出されいくものだと私は思っている。自分ひとりで頑張って幸せになろうとしても、限界のある私たち人間にはできない。つくり笑顔にすぎない。幸せのあり方は人それぞれではあるが、頑張った幸せは結局、地上のものとしていつか消えてゆくだろう。

けれど、神と手をつないで得た幸せは、何一つ消えることはない。しかも、あらゆる困難――経済的なこと、人間関係のこと、健康のことなど――も、整った心で対応できるようになる。笑顔は余裕と柔軟性を生み出す。

真剣な心はとても良いことだ。真面目な思いもとても素晴らしいものだ。けれど、朗らかなことはそれらのものより更に良いものなのだ。


私はいつも神の宴で、まことに、まことに朗らかである。






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