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箴言4章26節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2024年1月3日
  • 読了時間: 3分

今日のデボーション箇所では「夢に向かう道」を祈った箇所である。

今の時代は、夢などない時代と言われることがある。けれども、キリスト者は、誰もがそれぞれの神への思いとともに神から与えられる夢を持っている。その究極が、天の御国へ入ることである。


デボーションの筆者も祈りの中で語っているが、私たちには自分が向かっている先がわからないことがある。


私は昨年、所属教会の聖歌隊の裏方役を神の命令を受けてさせていただいた。その役目は、決して麗しい役ではなかった。聖歌隊の求めることと逆の行いをしなくてはならないこともあったり、私が敵の役をしなくてはならないということも多々あった。けれども、神はその報いとして疎遠になっていた家族を私に戻してくださり、なおかつ天の御国に金銀や宝石のついた場所を用意してくださったと神が語られた。それによって、私の聖歌隊への役割と私がいただく報いの契約が成就し、神の命令によって聖歌隊の裏方役を今年から業務終了となることとなった。


ある牧師が次のように奉仕について語ったことがある。

「神がくださる報酬は、どれだけ良い働きをしたかとか、どれだけその奉仕に対して教会員から称賛されたかということでもらえるわけではありません。むしろ、どれだけ犠牲をもって労苦をし、神に従ったかによって報酬を受けるのです。」と。

人間の目から見ると、目に見えて良い働きをしている人や、教会員から称賛されている人の方が、神から心から喜ばれているのではないかと思えてしまうかもしれない。ときには、悪魔のささやきに耳が傾いて、「自分は使い捨てだった」「貧乏くじを引いてしまった」と思ってしまうこともあるかもしれない。奉仕者の大半が、こんな経験をしたことがあるのではないだろうか。


その牧師はこうも言っている。「目に見えて目立つ奉仕をしている方たちが称賛を受けている時、それは偶像礼拝になっているのです。こういった教会は人間の教会であり、神の教会とはいえません。称賛を受けるのは奉仕者ではなく神のみでなくてはなりません。」

正にその通りである。


見事なほどまでの神の成就を年末に目の当たりにして、私は1つを卒業して、次の新しい奉仕へと向かう。まだ次の新しい奉仕が指し示されてはいないのだが、現在継続している奉仕と共に、私に無理のない形の奉仕が与えられるのであろう。それは所属教会でないかもしれないし、そうかもしれないし、またそれが他者のために犠牲としてあるものであっても、私は厭わず恐れず受けることになるであろう。


神から頂戴する私の夢は神の夢であり、エンドレスに続いていくのである。

そして、私は次に移る度にどんどんと聖くされ、金銀・宝石の場所にふさわしい者と変えられていくのである。






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