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詩編118編14節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年1月5日
  • 読了時間: 3分

振り返ると幼い頃から詩と賛美の使命をいただいていたように思います。ただそれに長いこと気づかずに歩んできたように思います。

意識的に神様に受け取っていただけるように詩を書き、歌うようになったのは、ここ数年ほど前からでしょうか。そう思うようになったのは、神様は主に向かって行ったものを何でも受け取ってくださるわけではないということを知ってからでした。

私がどれだけ心を込めて賛美をし、詩を書いても、神様は喜ばれはなさいますが、受け取ることを拒否なさることがあります。逆に、出来が非常に悪くても、神様はお受け取りになることがあります。

それはどんな時かと申しますと、心が神様だけに集中し、神様の愛だけに頼り、見えないものを見ようとしている幼子のような心の聖(きよ)さの中に心身を置いている時はお受け取りになりますが、技術・知識・経験・練習成果で何とかしようとしたり、人々の視線やその思いの内を邪推することで悪魔に隙を与えたりした時のものを神様は「やり直していらっしゃい」と返品されるのです。

つまり、神様は、聖いものしかお受け取りにならない、肉体があるがゆえにそこから発する穢れが微塵でも入るとお受け取りにならない――そういうことです。 そして、神様がお受け取りになられる時は、大体において人々からのお褒めの言葉はありません。逆に、神様が返品なさる時は、人々からお褒めの言葉があります。

神様は人が見聞きしているところと違うところを御覧になられるのです。 ゆえに、人々から褒められることは励みにはなり、神様に対して真直ぐで純粋な心があれば、高ぶりが生まれると用心する必要はありませんから、私は素直に心から褒め言葉を喜びますが、それとは別に、神様に受け取っていただけなかったという残念な気持ち半分、もう一方で次回は受け取っていただけるようにしようという希望が生まれます。

この希望が奉仕・献身の原動力だと思っています。


人は肉体がある限り、完璧に聖くはなれないわけですが、その聖くない自分の一切をイエス・キリストの聖さに委ねることで、この地上においても擬似的に聖さを創造することができるように感じています。あくまでそれは擬似なので贋物ですが、神様はそうやって私の賛美と詩に信仰の成長を与えてくださっています。


私を強めてくださった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。主は、私を忠実な者と見なして、奉仕の務めに就かせてくださったからです。

第一テモテ1:12


今年も少しでも聖く、常に洗われた心で神様に仕え、讃えていきたく思います。




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