マタイによる福音書10章27節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年6月7日
- 読了時間: 3分
今日のデボーション箇所は、毎朝、教会より送信されているみことばとメッセージからいただいた。
「暗闇」というと、クリスチャン的には、悪そのものや悪魔を連想してしまう人が多いかもしれない。クリスチャンの女性は、よく白い服を着たがったり、白百合を飾ったり、白い鳩を愛でたり...とにかく、白いものに神の存在を見いだす人が多いかもしれない。
けれど、私は暗闇が好きだ。というよりは、「暗闇」ではなく、「漆黒の闇」が大変好きだ。そんなふうに、兄弟姉妹に言ったとすると、怪訝な顔をされてしまうだろう。実際、ある時、祈祷会で「私は黒い模造の葉あるクリスマスツリーを飾っているのですが、黒い葉だと緑の葉のクリスマスツリーよりも、点灯したライトがとてもよく映えるのです。人生も同じなのですよね。」と言ったら、当時の牧師先生に「何を言っているんだ、この人は...。」という目を丸くされたことがあり、後で「もっと上手に説明できたらよかったのになぁ」と思ったことがある。
私が漆黒の闇を好むのには、今日のデボーションの箇所で先生が語られているように、「暗い」ということは「光がよく見える」からだ。その暗さが暗ければ暗いほど光は鮮明に目の前に映ってくる。ある意味、クリスチャンであってもなくても、苦労の多い人であればあるほど、人生の味わいが深くなっていることがあるのはこういうことではないだろうか、と思う。
また、その一方で、漆黒の闇に目を留めすぎてはいけないということでもある。そこに目を留めすぎると、光が見えていながら光の意味がわからなくなってしまうからである。だから、闇はあくまで光を包む衣であるというふうに私は思っている。黒い服を着ている人に会った時、私たちはその人の服を見るのではなく、まずその人の顔を見て話をする。それと同じように、闇が光を包む衣なのであれば、私たちは光の語ることだけを見つめて聞き、光と交わる。それはまるで、暗い夜空に輝くベツレヘムの星を目指して、博士たちがまっすぐ砂漠を進んでいったそんな姿のようだと思う。
人はよく自分の思うように物事が運ばないと、様々な文句やつぶやきを言ってしまう。そういった言動が出る時というのは、自我という暗闇に心がとらわれている時である。そういう状態の時は、光の意味が分からなくなっているがゆえに、心身ともに神の健やかさをいただいていない時である。そういった方たちのために、自分はどこまでその方たちのために祈り、尽くしてあげられるのか、実に悩ましいこともあるが、私は感謝なことに、清流も濁流も受け入れる性格を神から賜ったゆえに、もし何事がたくさん自分の周りに起きたとしても、心の根底はいつもキリストの平和という凪の中にいるのである。
ああ、全ての方たちが、暗闇に囚われず、光となっていきますように。
夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に付けましょう。日中を歩むように、品位を持って歩もうではありませんか。
ローマ13:12-13






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