マルコによる福音書11章17節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年1月19日
- 読了時間: 2分
何事も"釣り合い"、つまりバランスというものは重要だと感じます。今日のデボーション箇所の筆者は、礼拝の重要さを実にお分かりな方だと思います。
歴史的に古い教会であればあるほど、礼拝の見直しができないかもしれません。また、「礼拝はどれも聖い」と、神様が授けてくださっている礼拝であるのにも関わらず、自分たちが行っているものだという心になってしまっているかもしれません。
今日のデボーションのみことば箇所は、イエス様の宮きよめの箇所です。
この箇所を読む時、いつも私が思うことは「なぜ穏やかなイエス様が台をひっくり返すほど怒られたのだろうか。もっと平和に治めようとはされなかったのはなぜか。商人たちを静かに説得するなどイエス様ならできたではないか。」と。
でも、イエス様は商人たちの台をひっくり返すほど怒られ、手が出た…。
思うのに、イエス様は地上の天国であるはずの神殿に、地上の俗を持ち込んだから怒られたのではないかと思うのです。聖い天と穢れの地はお互い接点はないはずです。それなのに、すべての民の祈りの聖さだけがあるはずの場所に、穢れを持ち込んだからひどく怒られたように思います。
私は賛美を歌う時、白と黒の間を思って歌います。肉体のある人間には、白という聖さだけで歌うことはできません。でも、イエス様が台をひっくり返したように、黒く穢れた自分をひっくり返す心持ちで限りなく白へと向かおうという心持ちで歌っています。
そうすることによって、教会の空気を香の煙のように賛美の音の振動で聖めることができるのです。コツは見えてきたものの、今の私にその技術はまだまだありません。でも、神様が私を立ててくださったのですから、私にはそれができると託してくださったのだと思っています。
しかしながら、礼拝は"釣り合い"が重要だとデボーション筆者が言われることに私も同感です。賛美が突出しても、説教が突出しても、感謝の祈りが突出してもバランスが悪いと思われます。どの神様のお役割であっても、すべての召しが祈りの平安を呼び込むものでなくてはならないと思うのです。イエス様の怒りで台をひっくり返されるような心の在り方や、そういったものを持ち込むようではいけないと思うのです。
心から神様へ栄光を帰すために、自分をしっかり吟味しつつ、きちんと礼拝で神様に向かい合える者でありたく思います。






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