ヨハネの第一の手紙1章8-10節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年8月19日
- 読了時間: 3分
今日のデボーションの箇所は、「真剣に信じていない人の問題」を語っておられる。
現代の心優しい言い方でこういう方達を言うとすると「信仰の成長ができていない人」と言うことになるのかもしれない。
聖書は、読む人によって如何ようにも解釈することができる。だからこそ、間違えた解釈をしてしまうととんだことになってしまう。
私の知り合いのクリスチャンで、所属教会につまずいて教会に行かなくなった方がおられる。この方は「自宅で毎朝聖書を読んで祈り、一日の幕を開ける」を日課としているのだが、配信礼拝も受けることをせず、もちろん教会へ行くこともない。彼曰く「毎朝、聖書をきちんと読んで、祈りをして、神に向かい合っているのだから大丈夫」と言われるのだが、友人知人が困惑してしまうような我欲の言動をよくされる。つまり、聖書の神のみ言葉を正しく読んでおらず、自分の都合に合わせて解釈しているゆえに、神のみ言葉と自分の実践が乖離してしまうのであると思う。
「真剣に信じていない人」「信仰の成長ができていない人」というのは、神が言われることと己の言動との間に常に乖離が見られるのである。そして、その乖離が自分の罪ゆえであるということをあまり実感していないことが多いかもしれない。
こういう点から、デボーション書籍からの説教や礼拝での牧師の説教を常に聞くことは、解釈だけでなく、自分の言動との一致をはかるためにも実に重要だと思う。
私自身も含めて、信仰の成長が健やかに、そして何の見返りも望まず真剣にキリストだけを見つめられる者とされたいと祈っている。
さて、その一方で、二人の未信者の方たちが神に抵抗する姿を私はここ最近見ることがあった。
ひとりは、神をあまりにも蔑み過ぎて、経済的にも健康的にも神のお叱りを真正面から買ってしまった。けれど、神はそれでも憐れんでくださり、命だけは奪わないようにされた。
もうひとりは、健康にも経済的にも恵まれているのだが、神についての話を聞いて「罪は犯したくない」と素直に仰った。
面白いことに、この二人は神に対して同じように抵抗感を持っているが、罪に対する意識は真逆なのである。
私たち人間の目から見ると、前者の方がひどく神に抵抗をしているように見える。神の怒りをダイレクトに買ってしまったのだから。逆に、後者は素直に自分の罪を認め、神を受け入れそうな感じがする。
実際に二人への神の思いはどうなのか私には分からないが、神に抵抗する気持ちは、後者の方が強いように私は感じている。
なぜなら、前者は神に恐ろしいほど抵抗しているが、その根本には、自分の罪をよく分かっていて、神にお仕置きを食らうのを恐れているからこその抵抗である。
しかし、後者は、「犯したくない」と仰ったということは未来のことを言っているのであり、過去の自分の罪については言っていない表現である。要するに、「自分の過去の罪は全くない」もしくは「過去も現在も自分は義である」と思っているのだ。
病気であることに気付いて放置している者と、病気であることすら気付かない者との差は実に大きい。
二人が時にかなって救われることを私は心底から祈っている。そして、同時に、罪の意識は赦された後もしっかり持つべきだと自分を鼓舞している。
神が与えてくださる幸いも、試みも、全て合わせ飲んで、神の弟子としてしっかりと歩んでいきたいとつくづく思う本日である。






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