top of page

ローマ人への手紙8章25節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年8月7日
  • 読了時間: 4分

今日のデボーション箇所から、忍耐をもって待ち望む学びをいただいた。

忍耐というと、ジッと我慢だけをして全然報われないイメージがわくが、キリスト者の忍耐はそういうものでないと常日頃、思う。

もちろん兄弟姉妹の中には実に我慢強い方もおられるが、ここで言う忍耐は〝希望のある忍耐〟であると感じる。逆に言うと、虚しさや悲しさをかかえたままの忍耐はキリスト者の忍耐とは言えないのだ。


私は普段、あまり我慢をしない(笑)。我慢を美徳として生きるのはナンセンスとすら思っている。

なぜそう思うかというと、人間は、困難に強くないからだ。

例えば、「炎天下で飲まず食わずで丸一日いなさい」と言われたとする。私たちの忍耐はどこまで続くだろうか。おそらく数時間で肉体も精神もぶち切れて、苛立ち、怒りを顕にするだろう。

また、ひどい腹痛になったとする。我慢をし続けたら、おそらく大病になるか、死ぬだろう。

またまた、人間関係において、自分の思いを伝えず、我慢し続ければ、ストレスとなって発病するか、心を病むだろう。

我慢は人間の醜さをこれでもかと誘なってくるから、やはり我慢はナンセンスである。


しかし、今日のデボーション箇所にあるように、「未来の永遠の生活に対しては、輝く光のもとに大きく開いた目で」希望をもって忍耐したのならば話は別であると思う。


私は現在、普通の人にはあまりないほどのてんやわんやの状況下にいる。ある方にお話したら、度肝を抜かれたほどだ。おそらくこの状況は今後、どんどん悪化していくだろう。神が私の味方についておられるので、悪魔が気に入らないからだ。もしかしたらヨブのようになるかもしれない。

けれど、こういった状況下でも、このようにデボーションをし、神への短い音楽を作曲し献げ、大学も奉仕も力不足でありながらも出来る時間と場が与えられ、何よりも精神的に大らかに、そして朗らかに日々を生きている。

人目や人の顔色を気にしながら生きてもいないから、伝えるべきだと思った事や謝礼・謝罪をすべきだと思った事などは飾る言葉を使わずに子供のように真直ぐに伝えることができる。

もし、誰かから陰口を言われたとしても蝋燭の火を吹き消すようにフッと私の目前から消えていくが、それ以前に陰口を言われているのか、好かれてないのかすらも分からない。

経済的に困窮するかもしれない出来事があっても「もし飢えたら、神からの〝君の地上生涯は終わりだよ〟というサインだ」と健やかな心で受け入れ、待つ気持ちでいる。

普通なら怒りを覚えたり、文句のひとつも本気モードで呟く様々な出来事に遭遇しても、そういった感情も言葉も与えられることはない。

悩みと苦難の海の中にいるはずなのに、嵐の中の船でぐっすり眠っていたイエス様のように、私の心は安らかに眠っているのだ。

これはひとえに、神が招いてくださっている御国しか見ていないから、このような状態でいられるのだ。平たく言えば「余裕の心」が神によって養われているのだ。御国を見つめていることで、我慢や忍耐はその力を発揮せず、それらは単なる天国へのステップにしか感じないのだ。


今日のデボーション箇所で一番面白いと感じた箇所は「この地上の生活のためには左手だけで十分です」というところである。

右は「聖」であると以前にお説教で教わったが、ある意味、右が天のためものなら、左は地上のためのものだ。

「左手だけで十分です」とは、「ほら、地上のことだけど軽々できるでしょ」と言わんばかりの表現でとても魅力的な言い方でほくそ笑んでしまった。


「神の右に座したまえり」のみことばが頭を過ぎる。そして、神に語りかけた。

「えっ、〝父なる神様の右に〟ということは、父なる神様に向かい合って立つ私から見ると、そこって私からは左だよね???」と。

神は導かれる、「神はかたちとして見えないもの。右も左もない。けれど、聖なる場所に置いてあげるよ、そういう意味だよ」と。

「今までも、これからも、左手まみれの私だけれど、それでも良いでしょうか?」

神は笑われる、「だからこそ招いているのです」


今日の暑さも神のくださるものです。

さぁ、暑さの恵みを感謝していただきましょう。







コメント


bottom of page