詩編145編15節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年11月3日
- 読了時間: 4分
以前に「食べていくために仕事をしている」と言われた方がおられた。彼女は体に困難を抱えており、人生そのものが思うとおりにいかないと思っておられた。仕事を一旦、休んだほうが良いのではないかという提案が周囲から出された。けれど、彼女は無理をしてでも仕事をすると言う。そして、「仕事をしなければ食べていかれないじゃないの!」と周囲に当り散らした。私は神の憐みが彼女を守ってくださるように祈ったものだ。
「食べていくために仕事をする」という言葉は、仕事をすることを表現する際に、ごくごく一般的な言い方だろうと思う。大抵の人々は、生活のため、食物を買うため、生きていくため…など、仕事をそんなふうに表現するだろう。中には、出世のため、他者に勝つため…という人もいるかもしれないが、それも突き詰めていけば、心を〝野心〟という食物で埋めようということである。
今日のデボーションの筆者は、「どの獣も食物のために仕事をしていないのに、それぞれが独自の務めを持ち、それに従って食物を見いだす」とメッセージしている。
つまり、獣たちの目的は食物ではなく、別の目的で動いている内に〝それに従って〟食物が与えられている、というわけだ。
〝それに従って〟の〝それ〟とは何であろうか。〝それ〟とは神であると思う。
私は半年前にボランティアワーク先である保育園を契約満了で退社した。僅かであったが、身入りもあったため、私の周りの数人の方たちが私の生活を心配してくださり、「またすぐにどこかに見入り先を探されるのですよね?」とか、「これからどうするの?」と不安げに問うていらした。「仕事が見つかりますように」と祈ってくださった方もいた。
ところが私はどこまでもあっけらかんとしていた。なぜなら、神が私を捨てるわけがないことは誰よりも私が知っていたからだ。神が「半年間は神のためだけに神の仕事で尽力し、時が来て安定したら、神の仕事と同時進行で地上の仕事を与えよう」と私に約束されていた。
半年の間、家族が病に冒されたり、私の学業のための軍資金が必要になったりと経済的な不安が襲いかかった。神の言われる〝その時〟がいつなのか全く分からなかったため、不安によって息が詰まってしまい、牧師先生に吐露したりもした。今、考えると、実に情けない自分の姿であった。神が約束しておられるにも関わらず、それを信じ切れていない自分がいたのだ。
けれど、「食べていくため」というところに焦点を置くと、私は社会人になってからずっと仕事を「食べていくため」と考えたことは一度もない。
地上で生きていくにはお金が必要であるのは知ってはいるが、実感がないのだ。一杯の水と、たった一つのパンしかない生活があった過去があっても、こうやって今現在、生きているという事実が、「神が助けてくださっている」という実感として分かるからだ。
また、お金はなければないで、その分、神から知恵を与えられてきた。買えなければ作るという知恵と好奇心と行動力が与えられてきた。それによって、心が働く物事を幅広く自分に取り入れて、地上のあらゆることを知る楽しみと、それを通じた出会いと、自分の可能性を知ることが出来ている。
私にとって、仕事は「心の求めたところに与えられた物事に仕えること」である。そうやって仕えている内に、必要な分だけ神から食物が与えられる。給料明細書を気にすることなど不要である。
金銭を含む日々の食物に心を置き過ぎると、それを取り巻くものはどんどんと逃げていく。時には、小さな心温まる幸せも逃げていく。
食物が必要と思ったら、必死でそれを掴もうとせずに、食物を求める思いを手放すことが必要である。手放し、自由な心になった時はじめて、神は「委ねられた」と言われ、欲した食物は与えられるのだ。
昨日は保育園側の復帰リクエストで半年ぶりに私は園へ出向き、仕事をさせていただいた。
かなり重労働な部分もあるが、子供たちが駆け巡る園庭のケヤキの枯葉の山を、子供たちを見つつ掃きながら、神に感謝をする。職場復帰させていただいたことを感謝したのではない。神が私をよく御覧になってくださっていて、「良し」という時にかなって、順番に物事を与えてくださっていることに感謝をした。
ケヤキの木は、春には碧に芽吹き、夏には青緑に茂り、秋には黄金色に色づき、冬にはすべての葉を落とす。
神のくださる〝時〟も、巡り巡って、与えられる。
人生に心配なことなど何一つないと思う本日である。






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