詩編16章32節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年8月11日
- 読了時間: 5分
「怒り」と「嫉妬」というのは人間にとって二つの大きなテーマである。
この二つさえ上手くコントロールできれば、世の中は確実に平和になると思う。
今日のデボーションで与えられたテーマがこの内の一つである「怒り」である。
神様もおかしな導きをされるものだと思うのだが、私はよく他者から「あまり怒らない人」と言われる。で、実際、あまり「頭にきた!」ということがない。怒りそうな物事があったとしても、どちらかというと冷静に対処してしまうほうで、かえってそれが怒っている者からすると「私の怒りに共感してくれない」と思われてしまうこともあるが、怒る気持ちに共感していないわけでもない。ただその方の気持ちは理解はしてあげられるが、怒っても何も生産的でないと思うので、「怒り」という非生産的なところに力を注ぎたくないのだ。
私たちは社会において、年齢に関係なく、色々な立場があり、役割があり、生活がある。
誰一人として同じ人生をおくっている人はいない。
相田みつお氏が「みんな違って、みんないい」と言われたように、皆が違うからこそ良いのだが、皆が違うからこそ怒りを誰か一人が抱えると大きなトラブルに発展する。
その最たるものが戦争であろう。最初の一人が己の利益や他国への嫉妬で行動を起こしてしまうという間違いを犯す。された側は怒りを顕にし、仕返しをする。そして互いにその仕返しの繰り返しが戦争であると思う。その上、本人達でない他国が「私はこちらの味方」「僕はこちらを支援する」と加わってしまうと、物事は大きく最悪なほうへと向かっていく。そして、神の目から見て、誰もが戦争犯罪人となる。
しかし、これは、国家間のことだけではない。一人ひとりの人間同士でも起こることだ。
それは「喧嘩」とか「言い合い」とか、そんな風な言い方になるのだろうが、人間は様々な集いの中で怒りにかられる状況になることもしばしばだと思う。
江戸っ子などは特にそうかもしれない。「喧嘩は江戸の華」と粋な表現があるほどだ。
ある意味、江戸っ子は怒りを顕にすることで、自分の中にストレスを蓄積させない方法を持っていると言える。しかしながら、相手が江戸っ子なら「ストレス発散の相手にされた!よし!受けて立ってやろうじゃないか!」と喧嘩両成敗で済みようが、相手が土地柄の全く違う育ちの者ならば、そのようにとらえることはないだろう。
「みんな違ってみんないい」のだが、怒りの矛先はないに越したことはないのだから、人間である限り原罪によって怒りから完全に離れることは出来なくても、「怒りに疎くなる」ことは実に大切なことだと思う。
私はいくつか仕事を持っており、その一つは、出版関係の仕事をしている。
先日、「御伽草子」の本を手がけたのだが、その中に「ものくさ太郎」の話が出てくる。
「ものくさ太郎」と言えば、言わずと知れた稼ぎもしない怠け者で、鼻くそをほじって暮らしているような貧乏人である。彼は、地元の領主に「転がった餅を拾ってください」と言うくらい〝動きたくない派〟であり、〝付いているものは同じだよね?〟的な考えの持ち主ゆえに上下関係にも疎く、プライドとは無縁の生き方をしている。
その太郎は、その〝疎さ〟ゆえに周囲から馬鹿と思われて、そのような扱いを受けるのだが、ある経緯から、太郎を疎ましく思っている民から数年養われることになる。
けれど、太郎は歌を詠むのに長けており(誰にでも一つは賜物が絶対あるものだと思う)、それが帝(みかど)の目にとまり、帝の宣旨により故郷である信濃の地頭が探したところ、信濃の古文書が見つかり、それを帝に提出、よくよく調べたら、太郎は天皇の二番目の息子であり、両親を亡くした後、民に落ちぶれていたと分かった。そして、帝は「これは私と近い縁」ということで、太郎の身分を回復した。そして太郎は、数年養ってくれた民に土地を与えるなどをし、帝など上の立場の者からも、貧しい民からも愛され、人々から神として祀られた――という話である。
あくまで実話ではないわけだが、太郎のこの〝疎さ〟や〝鈍さ〟に〝怒りからの離れ〟を思う。
もし太郎が怒りの持ち主ならば、自分を馬鹿にしていた民に、立場逆転をいいことに仕返しをしたかもしれない。けれど、太郎は民が養ってくれた恵みを忘れず、彼らが馬鹿にしていたことに心は留まっていなかったのである。
「ものくさ太郎」の話の最後にはこう書かれている。
『およそ、凡夫は本体をあばくと腹を立てるが、神は本体を現わすと、三熱(さんねつ)の苦しみを醒まし、ただちにお喜びになるものである。人の心もこのようなもので、いくらものくさくとも、正身(しょうじみ)はまことに素直なものである。』と。
「三熱の苦しみ」とは、「焼燃」「極焼燃」「遍極焼燃」と怒りの炎の熱を三つの段階に分けた仏教用語であるが、細分化すると怒りというのは三種類もあるのなら、そう簡単に怒りを覚ますことは困難であると思ってしまう。
しかし、キリスト者には本日のデボーション箇所に書かれているように、「怒りを祈りに変える」という神が与えてくださった方法がある。私たちには怒りを告白する真の神がおられるのだ。
もし三段階にも及ぶ怒りの熱さが人間にあるのなら、そのエネルギーを怒りの相手ではなく、祈りのエネルギーにしたならば、その祈りは実に強力なパワーを持った祈りになるだろう。もちろん、その時の祈りは「私の怒りを取り去ってください」でも、「怒りから離れさせてください」でもいいと思うが、そのような四畳半的な祈りではなく、「神様、あなたの知恵と力を与えてください」と祈る時、人ははじめて怒りの鎖から解放されると思う。
今日もすべての人々が、幼子のように怒りに疎く、素直でありますように…。






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