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詩篇62篇8節
民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。 ******* 詩篇には、敵を憎み、のろうような言葉がつづられている。主なる神を信じる者がそんな言葉を口にしていいのか、とんでもないことだと思う。しかし、真実な祈りは決してきれい事ではない。自分の本当の思いを祈るなら、いたたまれない思いが、口で言い表わすこともはばかれるような言葉となって発せられる。そこに自分の本当の姿があらわにされる。私たちのどろどろとした思いが吐き出されると、祈りはせきを切ったように流れ出る。それが心を注ぎ出す祈りである。 心の中にうっせきしている恨みつらみを、心の深奥から湧き上がるいのちの水、聖霊というきよらかな水が洗い流し、傷ついて心をいやすのである。この生けるいのちの水は、身体のすみずみに及んで病めるところをいやし、弱いところを強くする。

Pastor
2025年11月10日


詩篇25篇7節
わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。 ******* 過去にどんなに大きなあやまちを犯したとしても、キリストの十字架の前にゆるされない罪はない。真のゆるしは、思い出すこともしない。私たちが忘れてはならないのは、主の恵みといつくしみである。 死に値する罪を犯した女の人が主イエスの前に突き出された。律法学者は、「モーセの律法によれば、この女は石で打ち殺されるべき者です。あなたはこの女をどう処罰するのか」と主に迫った。主は黙っておられた。彼らは何度も声を荒げて言うので、主は立ち上がり答えられた。「あなたがたのうちで罪のない者が、この人に石を投げなさい」。すると、一人去り、二人去り・・・だれもいなくなった。女の前にただ主だけが残った。彼女を罰することできるお方がただ一人残られたのである。しかし主は言われた「わたしもあなたを罰しない」(ヨハネ8:1)。罪がうやむやにされたのではない。この人のために、主は十字架を背負い、カルバリの山を登られたのである。

Pastor
2025年11月8日


詩篇25篇4-5節
主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。 ******* 4節後半の「あなたの道」は、前半の「大路」と対比して、新改訳は「小道」と訳している。人生には「大路」と言われるような人生を大きく分けるような岐路に立ち、二者択一の決断を迫られるようなことがある。そのような時に、主なる神はかたわらにおられて私たちを教え導き、進むべき大路を示されるのである。主に祈り、み言葉を読みながら進むべき大路を示していただきたい。さらに私たちは日常の生活において小道を歩む。どの小道に進むべきか、これもまた主は教え導かれる。詩篇23:3に「正しい道に導かれる」とあるように、その一瞬一瞬求められる決断にも、主はかたわらにおられ、「これが道だ、これに歩め」(イザヤ30:21)と導かれるのである。

Pastor
2025年11月7日


詩篇23篇5節
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。 ******* ダビデは百戦錬磨と言うに等しく、あらゆる戦いを制した。そうした経験によって彼はおごり高ぶることはなかった。かえって、勝利は武芸に長け軍略にすぐれていたからではなく、主が共におられたからだということをだれよりも深く自覚していたのである。彼は戦う以前から勝利を確信し、主は迫り来る敵前で宴を設け、勝利の祝杯をあげさせてくださる方であると詠ったのである。危機に際してもあわてず、主が共におられあらゆる危険から守ってくださるという信仰を与えていただきたい。

Pastor
2025年11月4日


詩篇22篇26-27節
貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。 地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。 ******* 詩篇22篇は、キリストの十字架を指し示す詩篇である。キリストが私たちにおいでくださったことによって、食べ物に乏しかった人も与えられて空腹を満たすことができ、物質的なことばかりではない、心においても、自分のことばかり考えている貧しい生き方が、主と出会い変えられ、他の人のことを思いやる、配慮する人に変えられてゆく。いつも主をあおぎ、主の御声に聴く人は主をほめたたえ、神のいのちを豊かに受けて生かされる。 このキリストの十字架と復活の福音が地の果てまでも伝えられ、神から遠く離れて主なる神とはまったく無縁に生きて人も、心の目が開かれて、本当の親である神のもとに帰って来て、主を信じる人となるというこの約束を信じて祈ってゆきたい。

Pastor
2025年10月31日


ヨハネによる福音書21章15節
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 ******* ただ今、来年度の教団の基本方針を主なる議題として、教区長会議が東京聖書学院で行われている。一部オンラインだが、北海道から沖縄まで18教区の教区長が集まり、審議が行われている。その2日目にあたる本日の会議終了後に、ある牧師と面談した。私がその人に何か教導するということはいっさいなかったが、よく話を聴くことに徹して面談を終えた時、「話を聴いていただいて嬉しかったです」と、その牧師が言ってくださった。私も嬉しかった。 その時、私たちは「局長室」で面談していたのだが、今から30年前に同じ「局長室」で、かつて私に話してくださった松木祐三先生の言葉を思い出し、彼にその話をした。 当時、松木先生は教団委員長を務めておられ、私は伝道局の主事だった。私は当時、成田の牧師をしていて

Pastor
2025年10月30日


詩篇23篇1、2節
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 ******* ここに主なる神と私の関係が羊飼いと羊の関係でたとえられている。羊は自分の身を守る術(すべ)がない。足はおそく、するどいつめやきばはない。自分の力では餌にありつくことができず、臭覚もきわめて弱い。つまりは、羊飼いの保護と養いなしには生きられない。羊飼いなる神、主イエス・キリストは、私たちのために命を捨てられた(ヨハネ10:11)。主があなたをあらゆる危険から守り、豊かに養ってくださらないはずはない。

Pastor
2025年10月29日


詩篇22篇1節
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 ******* この22篇はメシヤ(キリスト)の受難を預言するみ言葉と言われている。この1節は、マタイ27:46の「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」をさし示す。14~18節には、福音書の中に描かれた十字架の光景のいくつかが示唆されている。 主イエス・キリストは、私たちが受けるべき罪の刑罰をご自身の身に負ってくださった。頭にはいばらの冠がかむせられ、手足にはくぎが打たれた。脇腹に槍が刺され、血と水が分離して流れ出たことから、死が確認された。すでに心臓は蝋(ろう)のように溶けていたのである(詩篇22:14)。この肉体的な責苦だけでなく、精神的な責苦を受けられた。「救い主なら、自分を救え」と人々はののしった。これだけでも耐えがたい苦難であるが、もっとも耐えがたい苦しみは霊的な責苦である。それが

Pastor
2025年10月28日


詩篇18篇25-26節
あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。 ******* 私自身のことを言えば、私は決していつくしみ深い者ではなく、欠けのない完全無欠の人間でもない。清い者でもなく、よくひがむ。そんな人間には神は見向きもせず、忘れ去られて滅ぼしてしまうのか。聖書は決してそう言っていない。神のお心からほど遠い、神を神とも思わないような者を、主はあわれみ、探し求められる。私は救いようのない者であったが、そういう者だからこそ、ことさらにあわれまれ、お救いくださったのである。 そのようにして、神のあわれみといつくしみに触れて、私たちの心にいつくしみが芽生え育ち、人をいつくしむ者とされる。さらに、自分の本当の姿を見せられて、胸を打ちたたいて目を伏せ「罪人の私をおゆるしください」(ルカ18:13)と祈った取税人のように、おのれの罪深さを嘆き悲しむなら、主は「あなたはきよい」と言って、きよめてくださるのである。

Pastor
2025年10月27日


詩篇18篇6節
わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。 ******* 祈りは必ず主なる神の耳に達する、達している。ただそう思えないのは、祈りつづけないからである。二、三度祈ってやめてしまうか、祈ったものの、そのことすら忘れてしまって、あまり気をとめていないからである。祈りは主に届いている。だから、落胆せずに祈り続ける。祈りが主の耳に達していることと、その祈りが応えられ、主のみわざが発動されることには時間差がある。礼拝でも話したように、神のなされることには時がある(伝道の書3:11)。その時を待って祈りつづけよう。

Pastor
2025年10月24日


詩篇17篇8節
目に入れても痛くない存在のようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、 ******* 新改訳は「ひとみのように見守り」と訳している。顔に何かがぶつかろうとする時、私たちは瞬時に目をつぶる。無意識のうちに目を守るのである。これほどに注意深く防御されるものはない。主はひとみのように守り、みつばさを広げてあらゆる危険から守られる。 1952年に制作された「禁じられた遊び」というフランス映画がある。冒頭のシーン。第二次大戦、ドイツ軍によってパリが陥落し、多くの市民が荷車に家財道具を載せパリを脱出する。その中に荷車を押しながら言い争いをしている若い夫婦があった。そこに戦闘機が襲来する。爆音に驚いて、娘のポーレットがだいていた犬が逃げ出す。それを追いかけたポーレットは、低空で飛行する戦闘機の機銃掃射の前に飛び出てしまった。それを見た母親はポーレットを守ろうと走り出し、その後を父親が追う。子どもが撃たれそうになって、娘の上に母親が覆いかぶさり、父親が母親の上を覆った。銃弾が父親の背中を撃ち抜いた。 両親は即死、犬も死んだ。辛うじて娘のポーレットは助かった

Pastor
2025年10月23日


詩篇14篇1-5節
主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者はとこしえに動かされることはない。 ******* 主日、日曜日には、主を礼拝するために喜び勇んで教会に集う。週日も神を畏れ、神をあがめ神と共に歩む。だから、生活の中で人をそしるようなことをせず、真実を語る。まじめに働き、誠実に取引するような人が報われるように、公正でだれに対しても誠意をもって仕事をする。そうした生き方がゆるがされ、くずれないように神に私の心を守っていただきたい。 4節には「誓った事は自分に損害になっても変えることなく」とある。成田教会開拓時代、その初年、私たちの教団と宣教協力のパートナーシップを結ぶOMSという宣教団体

Pastor
2025年10月21日


詩篇14篇1-5節
主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。 すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない。その時、彼らは大いに恐れた。神は正しい者のやからと共におられるからである。 ******* 「神などはいない」と公言し、神を畏(おそ)れない人たちがいる。しかし、神を畏れないのは彼らだけのことではない。2節には、神が天から見下ろしすべての人をご覧になったが、すべての人が等しく、神のもとから迷い出て、心は腐れて善を行なわず、強い者が弱い者を食い物にし、主なる神に向かって祈る者はいないという(ローマ3:10-参照)。そのことに気づかされ、心をひるがえして主に向かうなら、あなたは「正しい者」義とされ、主なる神はあなたと共におられる。

Pastor
2025年10月20日


詩篇13章3節
わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。 ******* 詩篇の作者は、身体も心も苦痛にさいなまされ、主に向かって「いつまで御顔を隠されるのか」と訴えた。限界はすでにこえており、このままだと死に絶えてしまう。このままだと、神をあざける者がこの世でたたえられ、人々から神は忘れ去られてしまうと嘆いた。そうならないために、「わたしの目を明らかにしてください」と祈ったのである。 シリヤ軍が、夜のうちに預言者エリシャが滞在している町を取り囲んだ。彼を捕らえるためである。エリシャに仕える若者が朝早く起きて外に出て見ると、シリヤの軍勢が馬と戦車をもって町を取り囲んでいたのを見たので、若者はあわてて家に飛び込み、エリシャにうろたえ告げた。すると、エリシャは「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」と言って、「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」(列王紀下)と祈ると、主はその若者の目を開かれたので、天から遣わされた火の馬と火の戦車が、シリヤ軍の周囲を包囲しているのを見たのである。若者

Pastor
2025年10月18日


詩篇12章5節
主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。 ******* 人は神を畏(おそ)れなくなり、世の中には、うそ偽り、へつらいの言葉があふれている。いよいよ貧しい人、弱い人は行き場を失い、生きづらい世の中になっている。主はそのような人のために立ち上がり、彼らが願い求めている安全な場所を備えてくださるという。今日においてそれは、教会ではなかろうか。上げ足を取られたりとがめられたりせずに安心して身を置ける場所である。そこにはどんな人をも招き迎えられる主イエス・キリストがおられる所である。

Pastor
2025年10月17日


詩篇8章2節
みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。 ******* 引き続き、北海道聖会での恵みについて。札幌教会の土屋牧師夫妻の二人のお嬢さんのことをお話したい。上は4年、下は2年の小学生。2回の聖会に二人は出席していた。東京新年聖会では、幼児・小学生対象の「子ども聖会」を設けているが、北海道聖会にはない。私が驚いたのは、二人がただその場所にいて、お絵描きをしたり何か他のことをしていたわけではなく、賛美し、説教をしっかりと聴いていたことだった。お母さんの牧師夫人は声楽家であるが、しっかり音がとれて大きな声で歌っている。説教はノートにとって聴いている。聖会が終わった後に、「先生、これをあげる」と言って、それぞれ書いた説教ノートをノートから切り離し、私に渡してくれた。部分的に聴き取れて理解できたことが箇条書きに書いてある。かなり正確によく書かれているのに驚いた。上のお姉さんの方は余裕があって、絵入りで書いてあった(よく書けた記録ノートなので、コピーを取り、郵送し返そうと思っている)。 聖会Ⅱでは、説教が終わった直後にいくつかのグループに分

Pastor
2025年10月16日
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