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ルカによる福音書23章46節
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 ******* 今日は受難日である。 息を引きとる最期を迎えて、主は、私たちに見ならべきことを示された。それは父なる神のみ手にゆだねることである。私たちにはゆだねるべき神がおられる。何事も神にゆだねて歩むべきなのに、若い時はなかなか神にゆだねることができない。しかし、年と共に神にゆだねるほかにないということが言えるようになってきた。そして、この先、私たちにとって未踏の地に踏み出すときに至って、ゆだねるべき神がおられるということはなんと幸いな、何と平安なことであろう。その先には安らぎと希望に満ちている。

Pastor
4月3日


ルカによる福音書22章60-62節
ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。 ******* 主はこれまで十字架と復活の予告をしてきたが、最後の晩餐の後にいよいよその時が迫って、ご自身が捕らえられ、弟子たち皆が主を見捨てて裏切ることを示唆された。その時ペテロは、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と胸を張って言った。すると主は、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と答えられた。 主はゲッセマネの園で祈り、主のお心と父なる神のお心が一つであることを確かめられて、イスカリオテのユダに先導された暴徒たちに、主は捕縛された。弟子たちは予告のとおり、ふいを突かれて恐ろしくなり、主を見捨てて四散した。 ペテロは遠く離れて、捕らえられた主

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4月2日


ヨハネによる福音書13章1節
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。 ******* 最後の晩餐に先立って、主は弟子たちの足を洗われた。それは、弟子たちとの決別の時がいよいよ迫り、もっとも大切なことを伝えなければならないと願い、なされた行為であった。主のなされた洗足には、上に立つ者はしもべのようになって仕える者になってほしいという主の思いが込められている。また、洗足は、罪をゆるすことである。主は弟子たちの罪をかつてゆるし、今もゆるし、今後もゆるし続けられることを表わすものであった。また主にゆるされた者は、互いにゆるし合うべきことがここに言われている。そして、この1節のみ言葉に言われているように、洗足は弟子たちに対するかぎりない愛である。人と人の間にあってどんなゆるされがたい罪を犯したとしても、その罪はゆるされ、その人を愛し最後まで通される愛であった。

Pastor
4月1日


イザヤ書53章11-12節
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。 しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 ******* 主は、恐ろしいほどの肉体的な苦しみと、ののしりの言葉を浴びせられ、そして最後に臨んだ最大の苦悩、父なる神に捨てられるという、誰も想像し得ない苦しみの中を通された時に、光を見て心は満たされた。その苦しみによって人類の救いが成し遂げられたからである。私たちもまた、この地上においてどんなに辛い目にあったとしても、息を引き取る時には、光を見て満足し、その顔は安らぎに満ちる。天の御国の輝きを見るからである。

Pastor
3月31日


イザヤ書53章10節
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。 彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、 その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 ******* 主が十字架の苦しみの中を通ることによって罪の贖い、人類の罪と死から救いは完成された。ここにはキリストの復活、キリストを信じる者のよみがえりが示唆されている。私たちの究極の救いは、朽ちることのない、主と同じ栄光の身体が与えられ、神の御国を受け継ぐことである。キリストの十字架を仰ぎ、キリストの恵みを無にしてはならない。

Pastor
3月30日


イザヤ書53章7-9節
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。 ******* 昨日の6節には、羊飼いのもとを離れてしまったら、迷ってもとに戻れない羊の習性が語られてあったが、7節には、羊の飼い主に対する従順さが描き表わされている。主がゲッセマネの園で捕縛され、大祭司の前に立たされ一方的な不当な裁判を受けた時に、総督ピラトの最終裁判を受けた時も、ピラトはなんとか主イエスを無罪にしようと努めたが、主は決してご自身の無罪をご自分の口から主張することはなかった。主は終始父なる神のみ旨に任せ、無言のままだった。主は黙々と十字架の道をたどられ、打たれ断たれた。十字架の苦しみを受け、死を遂げたのである

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3月28日


イザヤ書53章6節
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 ******* 主は何のために十字架にかかられたのか?それは、私たちの地上での苦しみを担うためである。しかし、それをはるかに超えて重大な目的は、私たちの罪のためである。 罪とは、羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行くことである。人は本来神に向かって生きるべきものである。それが人類の始祖アダムとエバの堕罪(だざい)によって、人は自己に向かって、自己のために自己によって自己中心に生きるようになった。自己中心という罪は、事と次第によって他人をも殺しかねない。羊は方向音痴と言われる。人は羊のように、本来帰るべき道を知らず、神からはるか遠く隔てたところへ行ってしまって、だれもが失われている。そのまま放っておけば、人は永遠に失われ滅びてしまう。この地上での生涯を終えて、消えてなくなってしまってもかまわないと言う人もあるが、神から引き離されて底知れないところに捨てられる恐ろしさを人は知らない。それをご存じなのは、「わが神、わが神、ど

Pastor
3月27日


イザヤ書53章5節
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 ******* キリストの十字架は贖(あがな)い、すなわち代償を意味する。私たちが受けなければならない責苦を主が身代わりとなって受けてくださったのである。昨日述べた肉体的苦しみと精神的苦しみとは、死後、最後の審判後に受けなければならない責苦というよりは、現世において経験する肉体的苦しみと精神的苦しみのためである。 主の受難は、ピラトによって十字架刑の判決が下されると、ローマの兵士によって頭にいばらの冠をかむせられ、その上からこん棒で頭をたたかれた。太いいばらの棘(とげ)は主のこめかみや目のあたりに食い込み、顔や頭ははれあがり血がしたたった。次に服をひきはがされ、むち打たれた。古代ローマ時代のむちは牛皮でできていて、その先端には家畜の骨や鉛がはめ込まれてあり、背中を打つと、皮膚を破り背中に食い込む。むちを背中から引き離すと、血や肉片が飛び散った。そのむち打ちが39回に

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3月26日


イザヤ書53章3-4節
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。 しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 ******* 私たちはこの地上にあって耐えがたい苦しみに遭う。一つは肉体的な苦しみである。負傷、病から来る痛みである。もう一つは精神的な苦痛である。ののしり嘲(あざけ)られること、だまされ裏切られることなど。この二つの種類の苦しみを、主はあの十字架の上で負われたのである。だから、主は私たちのあらゆる痛み苦しみを手に取るようにわかってくださる。また、その痛み苦しみを主が一緒に負ってくださるので、私たちはそれを負い切ることができる。痛み苦しみに押しつぶされることはない。

Pastor
3月25日


イザヤ書53章1-2節
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 ******* 旧約聖書に幾度にもわたって、メシヤ(救い主)の到来が預言されていたが、いざ、来臨した時に、神の民であるユダヤ人はそれを認めることができなかった。そればかりか、救い主を排斥し、十字架にかけたのである。よりによって、もっとも聖書に精通し民らに教える立場にあった律法学者が、民らを扇動し救い主を十字架にかけたのである。そこに隠された全人類救済の神のご計画があった。 神が人となってこの地上に来られるなど、誰も想像もできぬことだった。ナザレの出身で、大工の家に生れた者が救い主であるなど、つまずきでしかなかった。しかしながら、キリストと出会い、救いにあずかる人たちが少なからずあった。彼らは高ぶらず、柔らかい心をもって、主イエスの語られる言葉を聴いたからである。 へりくだって柔軟な心で主に顔を合わせ、言葉を聴くなら、その救い主が「見

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3月24日


箴言14章29-31節
怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、 気の短い者は愚かさをあらわす。 穏やかな心は身の命である、 しかし興奮は骨を腐らせる。 貧しい者をしえたげる者はその造り主を侮る、 乏しい者をあわれむ者は、主をうやまう。 ******* 怒りが一旦暴走したら、誰もとめることはできない。もちろん自分もとめることができないと、だれもがそう思う。しかし、主なる神はこれを完全にとめることができる。怒りに身を任せたら、身も心も滅ぼしてしまう。これは神に敵対する霊の思うつぼである。 そういう時に天をあおぎ、主なる神の方を向き、「主よ、私の怒りを静めてください!」と叫んで祈る。主は必ずこれを静められる。 弱さを感じている人に気づいたら、そういう人を尊び、寄り添い手を差し伸べる。それは、主があなたをとおしてなされるわざである。

Pastor
3月21日


箴言12章16-18節
愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、 しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。 真実を語る人は正しい証言をなし、 偽りの証人は偽りを言う。 つるぎをもって刺すように、 みだりに言葉を出す者がある、 しかし知恵ある人の舌は人をいやす。 ******* 特に18節に心をとめたい。 剣をもって他人の心を刺すような言葉を発してしまうようなことがある。それは、同じように剣で心を刺し貫かれるような経験をしているからである。 ただ今、「レント」(受難節)、二週間後の金曜日は受難日であるが、受難の主を思い出してほしい。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ53:5) 主は、あなたの心の傷をあの十字架の上で負われて受けとめ、いやしてくださる。このいやしを受けるならば、16節にあるように、他人のはずかしめも気にとめなくなり、傷つくことはない。 そのようにして、憎しみは連鎖せず、拡散するこ,とはない。

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3月20日


箴言11章24-25節
施し散らして、なお富を増す人があり、 与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。 物惜しみしない者は富み、 人を潤す者は自分も潤される。 ******* ここを読むたびに、人間の計算と神の計算は違うことを思う。 惜しんで人に与えることをしない、するとかえって貧しくなる。すでに心が貧しくなっているが・・・。 物惜しみしないで与える人は富むものとなる。 それは、主なる神は見ておられるからである。 「潤(うるお)す」は、ここでは物質的にうるおうことを言ってるが、もっと幅広い意味でここをとらえることができる。私たちの口から放たれるひと言によって、他人の心をなごませ、慰め励まし、勇気を与え、ふるい立たせる。このように、他人に潤いを与える言葉は、神によって潤された経験を持つ人によってもたらされる。

Pastor
3月19日


箴言6章20-23節
わが子よ、あなたの父の戒めを守り、 あなたの母の教を捨てるな。 つねに、これをあなたの心に結び、 あなたの首のまわりにつけよ。 これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを守り、あなたが目ざめるとき、あなたと語る。 戒めはともしびである、教は光である、 教訓の懲らしめは命の道である。 ******* モーセの十戒の第五戒に、「あなたの父と母とを敬え」とある。これは命をかけて守るべき厳命である。 「敬う」とは、両親の言うことに従うことであり、成人したら、親の寵愛に応えるべく、大事にすることである。なぜそうなのか?子どもは、主なる神がお造りになったものであり、親はその授かった子を、神の代務者として、安全に健康に、そして神を畏(おそ)れるものとして育てる責任があるからである。だから、本当に子であるあなたを心配しているのは親である。その育てる志と心は神から授けられている。それゆえ、子は親に従うのである。 また、親は子を自分の所有物のもののように、自分の思いどおりにしようとしてはならない。親であるあなたとは別個の人格である。この世に生

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3月17日


箴言3章1-6節
わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、 わたしの戒めを、あなたの心におさめ、 あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、 しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、 あなたの声をあげ、 銀を求めるように、これを求め、 かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、 あなたは、主を恐れることを悟り、 神を知ることができるようになる。 これは、主が知恵を与え、 知識と悟りとは、み口から出るからである。 ******* 今日、情報はあふれている。あなたには知識も経験も豊富にあるかもしれない。しかし、何も知らない幼な子のような心をもって主に向かい、主のみ言葉に聴くなら、主は語られ、上よりの知識と知恵、悟りを与えてくださるであろう。

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3月16日


テモテへの第二の手紙4章16-17節
わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方をする者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。 ******* パウロには、頼りになる同伴者もいれば、同じ仲間から裏切られ苦しめられることもあった。それでも、そのことの故に、彼らが主に責められることがないように、パウロはとりなし祈っている。パウロの働きは決して独りでできるものではなかった。多く人たちの祈りと支えがあってなされてきたのである。それでも、どんなに信頼できる同伴者であっても、ついて行くことすらできない事もあった。そうした時には、主ご自身が傍らにあって、助け力づけられたのである。これは比喩かそれとも実際にあったことかは知れぬが、「ししの口から救い出された」とある。実際、ローマの闘技場に放たれたライオンの餌食にさらされそうになったことがあったのかもしれない。パウロの多くの信仰の

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3月13日


テモテへの第二の手紙4章7-8節
わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。 ******* 私たちには戦いがある。キリスト者としてこの世にあって生きる時に、少なからずこの世の軋轢(あつれき)があるからだ。主イエスは、「あなたがたは、この世では悩みがある」(ヨハネ16:33)と言っておられるが、そのことを指し示している。キリスト者であるばかりに悩むことがある。支払でおつりを多くもらってしまったことに気づき、返しに行く・・・など。しかし、戦いや悩みがあっても、私たちはそれを乗り越えることができる、なぜなら、ヨハネ16:33の後半部に「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と主は言われるからである。 そして、「走るべき行程」がある。同じ教会に通い、同じ信仰に立っていても、進むべき道、置かれている境遇は違う。私たちはどうしても他人と比べて

Pastor
3月12日
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