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テモテへの第二の手紙4章1-2節
神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。 ******* 時が良くても悪くても、それにかかわらずみ言葉を宣べ伝えなさいという。それは主イエス・キリストが再び来臨する日、新しい天と地が創造され、私たちを招き入れる御国が用意され、招き入れられる日が近づいているからである。、わが身になされた救いのみわざを人を選ばず、時と場所を選ばず、語り伝えたい。おどすようにではなく、忍耐と寛大な心をもって、何としてもその人の心に届くように祈って、知恵を与えられて宣べ伝えたい。

Pastor
3月11日


テモテへの第二の手紙3章16-17節
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。 ******* 「霊感」(inspiration)とは、聖書を執筆した原著者に特化した聖霊の働きである。それに対して、今日、私たちが聖書を読む時に、あるいは聖書から語られる説教を聴く時に与えられる聖霊の働きは、「照明」(illumination)という。聖書をとおして、主なる神は私たちの心に生きて語られる。み言葉の光は私たちの足元を照らし、つまづくことがないように、めざすべき目標を見失うことがないように、私たちが歩むべき道すじを照らす。さらに、み言葉をとおして神の命を注ぎ、良いわざに間に合うように整えてくださる。

Pastor
3月10日


テモテへの第二の手紙2章21節
もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。 ******* 「神の器」という言葉に心魅かれる。そう言われる者になりたいと切に思う。「器」は自己を主張しない、ひたすら神の働きに専念する。そして、その器が主に役立つものとなり、主のなさろうとされることに、間に合う者となるためには、主の全き所有となることであり、あらゆることを主のみ言葉に聴き従うことである。そういう人を主は「尊いきよめられた器」と呼ばれる。

Pastor
3月9日


テモテへの第二の手紙2章15節
あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。 ******* 今週の火曜日に、ホーリネス教団に新しく加盟する人の面接があった。その中に、私たちの教会にミッション生として奉仕された吉村兄がおられた。4年間の学びと訓練を終えていよいよ教会に派遣される。吉村兄を含め6名が新加入する。お祈りいただきたい。その面接は一人ずつ行われ、最後には必ず教団委員長がお祈りをする。その祈りの冒頭で読み上げる聖句がこの15節のみ言葉である。真理の言葉を正しく教えるためには、聖書を調べたり勉強したりする以上に、聖書の前に心を静め聴くことである。そしてみ言葉を解き明かし語る者が、み言葉の前に自らをささげ、そのみ言葉にへりくだり従うことである。それが、毎回毎回講壇に立つ時に行われるようにお祈りしていただきたい。

Pastor
3月7日


テモテへの第二の手紙2章13節
たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。 ******* アルファでありオメガである主なる神は永遠であり、その語られる言葉もとこしえに変わることがない。それ故に、主はいかなる時も真実である。それに対して有限な存在であり、多分に弱さをもった人間には、常に真実であろうと努めても、それがなし得ぬことがある。不慮の事故や病のために約束の時間に間に合わないことがあり、気のゆるみでうっかり忘れてしまうこともある。主の真実の前に自らの不真実を思い知りながらも、私は神の前にも人の前にも真実でありたいと志し、努めいどみつづけている。それは、主を信じて主と共に歩んできたこれまでの人生において、主は常に真実であったからである。「ヘセド」というヘブル語は、神の愛を表わす言葉であるが、とりわけ人との契約、約束において誠実であるところに表わされた愛であることから、「誠実の愛」と呼ばれる。私たちも、主の誠実と真実に対して誠意と真実をもって応えるものとならせていただきたい。

Pastor
3月6日


テモテへの第二の手紙2章1節
そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。 ******* 主の恵みによって、私自身が強くされてきたことをふり返る。 一つは、他人と比べることをせず、私は私でいいと心から思えて、自分らしく生きられるようになったことである。神は、私を私のように造ってくださって、神ご自身も、私が自分らしく生きることを何よりも願っているからである。 もうひとつは、不足を感じることがあっても、慌てずつぶやかない。主に祈るなら、主は必要なものを必ず備えてくださる。そして、神が与えてくださるものに感謝し、足ることを学んだ。 さらに、苦難に遭遇して途方に暮れることがあっても、行きづまることはなかった。主を呼び求める時に、逃れる道を備えてくださるからである。 また、主を信じることによって良き人との出会いがあった。特に教会にあって、その交わりの中で祈られ、助けられ、生かされている。 他にもまだまだあるが、主の恵みは枚挙にいとまがない。

Pastor
3月5日


テモテへの第二の手紙1章8節
だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。 ******* 神の壮大なご計画の基にキリストの十字架と復活の福音がある。この福音が牧師、伝道者、宣教師のみならず、すべてのキリスト者に託されているのである。あなたは神の救いのご計画の一端を担っているのである。誰にでもできる福音宣教がある。それは、わが身になされた救いのみわざを語ることである。家族に、友人に何としてもこの福音を伝えたいと願うなら、聖霊があなたに語らせてくださる。聖霊によって語らせていただくなら、あなたの証がつたないものであると感じても、相手の人の心に何らか響くものとなる。すぐには芽を出さないかもしれないが、確実に種はまかれたのである。祈りによって発芽を待とう。また、聖霊によって語らせていただくなら、同時あなた自身もそれを聴くのである。そこにはあたたかな霊的な感動があり、あなたの救いが確かなものであることを知るのである。「神の力にささえられ

Pastor
3月4日


テモテへの第一の手紙1章6-7節
こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。 ******* 「内にいただいた神の賜物」とは、聖霊のことである。聖霊は、恐れ臆する思いから私たちを解き放ち、力と愛と慎みを与えてくださる。聖霊が注がれると、私たちの心は熱く燃え、力にあふれるだけでなく、神の愛が注がれ、神の愛に満たされる。他人に対し、押しつけがましくなく慎ましく、気遣いがある。だから、聖霊に満たされた人とは何事にも勇敢に立ち向かい、バランスのとれた人間性を保ち、いつまでもこの人と一緒にいたいと思うような人であろうと思う。

Pastor
3月3日


テモテへの第一の手紙1章5節
また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。 ******* あの燃える柴に、モーセが近づいた時、神はご自身を現わし、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われ、ご自身が何者であるかを明かされた(出エジプト3:6 マタイ22:32参照)。私たちの信仰は、親から子に、子から孫へと受け継がれてゆく信仰である。このテモテ第二の手紙1章にも、テモテの信仰が祖母ロイス、母ユニケと受け継がれてきた信仰であると語られている。どんなに輝かしい信仰生活を送ったとしても、それが一代で終わってしまっては、夏の夜空に花開き、消えてゆく花火のようにむなしい。「あなたにも宿っている」というように、生きた信仰が子や孫たちにしっかりとその心に根づくように生活の中に示し、語り伝えてゆきたい。

Pastor
3月2日


テモテへの第一の手紙6章18-19節
また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。 ******* 主イエス・キリストの再臨の日、主と対面し、主と同じ姿に変えられる、その望みに立って、家族に対し、友に対し、職場、学校、あらゆる人とのかかわりの中で良きわざに励み、惜しみなく分け与える者でありたい。それは他者のためという以上に自分自身のためである。そのようにできたことが嬉しく、喜ばしいことであるからだ。

Pastor
2月28日


テモテへの第一の手紙6章12節
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。 ******* この世に生きるかぎり、キリスト者には戦いがある。さまざまな誘惑があり、礼拝をささげることにも、聖書と祈りをもって主なる神と交わる時間を確保するのにも戦いがある。戦いがあるから、主が私たちの生活のただ中におられることを知り、主のみわざを拝するのである。

Pastor
2月27日


テモテへの第一の手紙6章6節
しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。 ******* このみ言葉のとおりである。主イエス・キリストをとおして神と和解し、神との交わりの中に入れられることによって得られた尊い恵みは、「足ることを知る」ことができたことである。主と共に歩む時に、必要なものはすべて備えられる。その与えられたものに感謝する。多くを持たなくとも満ち足りている。多く持っているキリスト者もいる。それはその必要があって神から与えられたものであり、正しく管理する能力も神から与えられているからである。管理が危うくなって、金銭に振り回され、信仰さえ失いそうになったなら、多くの富から離れることも考えなければならない。永遠の命にはかえられないからである。 パウロは言う。「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ4:11-12)。 そのような成熟

Pastor
2月26日


テモテへの第一の手紙5章1-2節
老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように、年とった女には母親に対するように、若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい。 ******* ここに言われていることは、未だ若い青年牧師テモテに対してだけでなく、教会に集うすべての人に対して言われているものである。教会は、主によって召し集められた神の家族である。上掲のみ言葉のように、父親がおり、母がおる。また息子がおり、娘がおる。高齢の人の中には、一生懸命子育てをして家庭を守り支えてきても、子どもたちが自立してそれぞれ家庭を持てば、親のことを顧みる暇がなく、さびしく暮らしている人がある。そのような人に、若い人は自分の親のようにやさしくいたわり、主はご存じであってその労苦に必ず報いてくださるという希望を語る。若い人には、職場の人間関係に悩んでいる人がいれば、高齢の人は自分の経験から有益な助言をし、慰め励ます。教会は霊の家庭であって安心して憩える場所である。上よりのいのちと力が注がれて、それぞれの生活の場に遣わされてゆくので

Pastor
2月25日


テモテへの第一の手紙4章7-8節
しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。 ******* ミラノ・コルティナ五輪が閉幕となる。オリンピックを観戦しながら、改めて出場している選手たちが如何にたゆまぬトレーニングを重ね、身体だけでなく精神面も鍛錬してきただろうかを思う。そう思いながら、私たちの信心、信仰はどれだけ鍛えることをしてきただろうかを考えさせられた。 信仰の成長のために試練は欠かせないものである。試練があって私たちは神をまっすぐに見、祈る。そしてみ言葉を足元や道を照らす光とし、それを乗り越える命とし力とする。それによって神と私たちのつながりが一層深められてゆくのである。

Pastor
2月24日


テモテへの第一の手紙3章9節
きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。 ******* ここには、監督職に就くにふさわしい人とはどういう人かが述べられている。「監督」というのは、今日で言えば、牧師である。しかしながら、この9節の言葉は一般の信徒であっても無縁ではない。 キリスト者であれば、だれもが「信仰の奥義(おくぎ)」なるものを持っているからだ。それをしっかり保たなければならない。 「信仰の奥義」とは、奥義中の奥義と言ってもよいが、それは、私たちの信仰の核心にある「キリストの十字架と復活」である。奥義とは隠されたる真理である。特に賢い人に隠され、人が知力を尽くして知ろうとすればするほど、遠ざかってゆく真理である。私たちの理性によれば、人々にののしられて、あのむごたらしい十字架で死んだ者がどうして人を救えるのか、どうして死んだ者がよみがえるのか、それは受け入れがたいものである。しかし、幼な子のような柔らかいへりくだった心をもって、私たちの心のうちにささやかれる聖霊のささやきに耳を傾けるなら、知性によってではない、私たちのうちに創造以来備わっている霊性(神を求

Pastor
2月23日


テモテへの第一の手紙2章9-10節
また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。 ******* “ Sunday clothes ”という言葉がある。昔、西欧では一番いい服、一張羅を着て日曜日教会に行った。今日はそうした習慣はすたれてしまったように思う。今日は、むしろ普段着で行く人が多いように思う。要するに、ありのまま、自分らしくして神の前に立つことが望ましいからである。この聖書の時代は貧富の差がはなはだしくあって、つつましい身なりとあるのは、身を整えて行くことのできない人へ配慮だったのではないか。また、装飾品や高価なドレスで身を飾ることはありのままの自分を表わすものではない。つつましい普段着が望ましいとしたのだろう。10節には、私たちが受け取るべきメッセージがある。「むしろ、良いわざをもって飾りとする」。善行を他人に見せるというものではない。善行は、私たちの信仰よりにじみ出てくるものである。主を信じて聖

Pastor
2月21日


テモテへの第一の手紙2章8節
男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。 ******* 男性に対して、主なる神の求められることは、怒って争って手をあげることなく、きよい手をあげて祈ることである。義憤に駆られ怒り、争う。確かに男性にそうした傾向があるように思われるが、女性であっても怒り争う。怒りという感情に身をゆだねて、いいことなど何一つない。感情が爆発したら、もうだれも止められない・・・ということは決してない。主はそれを止めることができる!主は生きて私たちに働かれるからだ。私の経験を話すならば、腹が立って、それが収められずに車の運転をどうしてしなければならない時がある。こういう時は本来運転すべきではないが・・・。しかしながら、そうした場合に、アクセルを踏んで走行する。すると、制限速度を超えることなく、運転している。これは自分が意識してやっていることではなく、主が私を制御しておられるのである。そのように主はいつもよりもゆっくりと走行させて、私に平常心を取り戻してくださるのである。もうひとつのことは、これは意識してすることである。怒りのこぶし

Pastor
2月20日


テモテへの第一の手紙2章4節
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。 ******* 神の御心は、すべての人が救われて真理を悟り、神に向かって神と共に歩むことである。その神の御心にしたがって、家族や友人、知人に福音を伝えてゆきたい。私たちが福音を伝えてゆくなら、主イエス・キリストが仲保者となって、神と結び合わせてくださる。

Pastor
2月19日


テモテへの第一の手紙2章1-2節
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。 ******* 政治に無関心であってはならないことが、少なくともこの箇所に述べられている。私たちが安らかで穏やかな一生を送ることのできるために、主なる神を心から信じ従ってゆくために、その信仰の自由が失われないために、立法、行政、司法をつかさどる人々のためにとりなし祈るのである。教会が、信仰と祈りによって国や地域を支える良き共同体でありたい。

Pastor
2月18日


テモテへの第一の手紙1章16節
しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。 ******* パウロがサウロと呼ばれていた時、彼は意気揚々として、方々に離散したキリスト者を捕らえるためにダマスコに向かっていた。その途上、強い光に撃たれて落馬し、復活の主の声を聴いたのである。あの時、サウロは主に撃たれ殺されていてもおかしくなかった。主のあわれみによって命はとどめられ、贖われたのである。殺されて当然の者が生かされ、救いに入れられた。だからパウロは言う、「わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」と。「模範」は「見本」と訳した方がわかりやすい。私のような悪らつな者が救われたのだから、他のどんな人であっても救われないはずはない」。そういう見本なのである。

Pastor
2月17日
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