top of page

検索


テモテの第一の手紙1章15節
キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 ******* 「違った教え」(3節)を説く者がおり、それを警戒して、パウロはここにキリスト教信仰の本髄を示し、そこに立ち返るべきことを教えている。キリスト教信仰とは何か?キリストの来臨は何のためであったか?それは罪人を救うためであると明言されている。キリストは罪人のためにこそ、十字架にかかられたのである。どんな悪らつな罪人であろうと、彼を救ってやまない。それは確実なことであるとパウロは言う。何故そう言えたのか。それは、「私のような罪人のかしらさえ、神のあわれみによって救われたからである」。だから、どんな人であっても救われないはずがないと言うのである。これは大げさに言っているのではなく、13節に「以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった」と言っている。罪と滅びの中から私たちを救われた主イエス・キリストを宣べ伝えてゆきたい。

Pastor
2月16日


創世記50章24-25節
ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた。 ******* ヨセフは異教世界でたった一人神と共に歩み、目に見えない神がおられることを人生の大きな局面においても、平凡な日常の生活の中でも体験してきた。こうした信仰体験をもとに、ヤコブ一族に確信をもって語ったのが、「神は必ずあなたがたを顧みられる」という言葉であった。今日の私たちに向かっても、ヨセフは言うだろう。「だれも頼れない異国で、しかも奴隷となって売られ、さらには、無実の罪で薄暗い牢獄に入れられ、だれも弁護してくれる人などいない中にあって、主は私を見捨てられなかった。私ばかりではない、家族も救われたのである。だから、あなたを顧みられないはずはない」と。

Pastor
2月14日


創世記50章15-21節
ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。そこで彼らはことづけしてヨセフに言った、「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました、『おまえたちはヨセフに言いなさい、「あなたの兄弟たちはあなたに悪をおこなったが、どうかそのとがと罪をゆるしてやってください」』。今どうかあなたの父の神に仕えるしもべらのとがをゆるしてください」。ヨセフはこの言葉を聞いて泣いた。やがて兄弟たちもきて、彼の前に伏して言った、「このとおり、わたしたちはあなたのしもべです」。ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。 ******* 父ヤコブが亡くなり、ヨセフの兄弟たちは、かつて行った仕打ちに対してヨセフは

Pastor
2月13日


創世記45章5節
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。 ******* 旧約聖書に登場する人物の中で、ヨセフほど波乱万丈の生涯を送った人はあるまい。17歳だったヨセフは、神によって二つの夢を見せられた。それを発端に、彼は兄たちに恨まれてエジプトに奴隷として売られ、濡れ衣を着せられて投獄された。しかし、ヨセフの神に対する信仰は揺るがなかった。それ故、神の臨在は彼を離れず、そのなすところを皆栄えさせた(詩篇1:3)。 ヨセフは牢獄から出されてエジプトの王パロの前に立ち、彼の見た夢を解き明かした。その夢とは、エジプトに7年の豊作が続いた後、7年の激しい飢饉に見舞われるというものだった。その聡明さが買われ、ヨセフは飢饉に備え政策を講じ、全国を統治する宰相に任じられた。飢饉は全世界に及び、ヨセフの兄たちが買い出しのためにエジプトを訪れ、彼らはヨセフとは知らず、彼の前にひれ伏した。神の夢はこの時、実現した。 ヨセフは兄たちの前に、自分が弟であることを打ち明け、「私がエジプトに遣わさ

Pastor
2月12日


創世記41章1節
二年の後パロは夢を見た。夢に、彼はナイル川のほとりに立っていた。 ******* ヨセフの入れられている牢獄に、王宮で仕える給仕長と料理長が王の怒りを買い、投獄された。顔色のさえない二人はそれぞれ夢を見たという。だれもその夢を解き明かす者がなく、不安と恐れを感じていた二人に、ヨセフはその夢の解き明かした。それぞれ見た夢のうち、給仕長の夢はパロ王の許しを得て職務に復帰できるという夢だった。ヨセフは給仕長に言った。「あなたが王宮に戻れたら、私が不当に投獄されていることをパロ王に知らせ、この牢獄から出られるようにしてほしいと頼んだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、給仕長はヨセフの解き明かしのとおりに王宮に復帰したものの、ヨセフとの約束を忘れ二年の歳月が流れた。この二年間、どのように過ごしたのだろうか。ようやく出口が見えたものの、そのとびらは一向に開かれなかった。 その二年後に、エジプトの王パロは夢を見た。止まっていたような時間が動き出したのである。 「こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることはない」(イザヤ49:2

Pastor
2月11日


創世記39章20-23節
主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。 ******* ところが、ヨセフはポティファルの妻から誘惑され、拒んだことから彼女に恨まれ、彼女の狂言によって汚名を着せられ投獄された。ところが、ここにおいても主は共におられた。ヨセフは牢番の長の信頼を得、牢獄の管理を任せられた。主が共におられるなら、どんな悪意を持つ人によって苦しめられ、奈落の底に突き落とされるようなことがあっても、神はその災いのただ中で祝福される。そして、必ずそこから立ち上がらせて下さる。 わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。(詩篇23:6) 新改訳は、「伴う」を「追いかけてくる」と訳している。どんな災いがふりかかっても、主が共におられるなら、神の恵みと祝福はどこまでも追いかけてくる。

Pastor
2月10日


創世記39章1-3節
さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。 ******* ヨセフは、ヤコブの11番目の息子である。ヨセフは最愛の妻ラケルの最初の子だったので、袖付の長服を着せ偏愛した。上等な服を普段着として着せたということは、ヨセフを家内労働から外し、特別扱いにしていたということである。しかもヨセフは兄たちの良からぬ行状を父に告げ口したので、兄たちから恨まれた。そんなヨセフが二つの夢を見る。それは両親と兄たちがヨセフを伏し拝むというものだったが、臆面もなく父や兄たちに話して聞かせた。当然のことながら兄たちの怒りを買い、憎しみはさらに増し加わった。兄たちは父の目の届かぬところで、ヨセフをイシマエル人の隊商に売り、ヨセフはエジプトの王に仕える侍従長ポテパルの家の奴隷の身となった。しかし、

Pastor
2月9日


創世記32章24節
ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 ******* 伯父ラバンの家に身を寄せて20年の歳月が流れた。ヤコブは神の約束に従い帰郷の途についた。兄エサウの怒りは解けているか、気が気でなかった。神は、ベテルで「天の梯子」の幻を見せられたように、戦いに備えた御使いたちが群がる「神の陣営」を見させられた。誰が待ち構えていようとも恐れるには及ばないという神の約束のしるしだったのだが、依然として、ヤコブの心から兄エサウに対する恐れと慄きは消えなかった。彼は兄のもとに使者を送り、その様子を探らせた。使者からの報告は4百人の従者をしたがえ、ヤコブの帰りを待ち構えているという。一気に緊張は高まった。ヤコブは一行と財産を二つに分割した。一つをエサウに攻め取られても、一方は無事に残ると考えた。先頭には兄への贈物、しんがりには宝とも言うべき、妻ラケルとその子ヨセフを置いた。いよいよエサウと会見する前夜、一行はヤボクの渡しを渡ったが、ヤコブは渡らずに独り対岸にとどまった。そこで彼は神の御使いと出会い、「あなたが私を祝福して下さらないならば

Pastor
2月7日


創世記28章16節
ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。 ******* このヤコブの口から発せられた言葉は、意味深長な言葉である。ヤコブは信仰に篤い両親の下で育った。祈ること、主なる神を信じ従う生活はあたり前のことで、自分の意志でするというよりも、そうさせられてきたのであり、信仰は身体にしみついたものであった。それはそれで尊いことであるが、主体的な信仰ではなかった。しかし、親の傘下から抜け出してみて、初めて生きた神を体験したのである。目には見えないが、神が今この所に共におられることを実体験したのである。神がヤコブに語られ、彼の前にご自身を現わされたのである。 聖書とはまったく関わりを持たずに歩んできた人もまた、目には見えないが、神はその人の生涯に、誕生から今日に至るまで関わっておられる。主と出会うことをとおしてそれを知り、主との出会いに至るまでに、自らの人生の中にいくつも布石があったことに気づかされるのである。

Pastor
2月6日


創世記28章15節
わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。 ******* ヤコブは母リベカと共謀し、父イサクと兄エサウをあざむき、兄になりすまして神の祝福を受けた。善良なことではなかったが、すべては、神のご計画と御手の中でなされたことであった。しかしながら、兄の怒りを買い、母方の伯父ラバンの下に身を寄せることとなった。その旅の途中、ルズで野宿した。すると、地から天に達する階段が目の前に現われ、御使いたちが行き来するという夢を見た。うっとりするようなうるわしい光景であった。この夢は鮮明に記憶に残る夢であり、ヤコブはこの夢をとおして、天と地はつながっていることを知り、神のみ言葉の約束は必ず成就し、ささげられる祈りに神は必ずお応えてくださることを確信したのである。そして、上掲の主の約束の言葉が語られた。 今朝、私たちに向かって同じように主なる神は語られる。あなたがどこに行こうとも、神は共におられてあなたを守り、あなたをこの地に必ず連れ帰る。決してあな

Pastor
2月5日


創世記24章15節
彼がまだ言い終らないうちに、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘リベカが、水がめを肩に載せて出てきた。 ******* このイサクをめぐる結婚の物語は美しい。140歳となったアブラハムはイサクの結婚のことを最年長の僕(しもべ)に託す。イサクは単なる後取りではない、神との契約の継承者である。それ故、妻はカナン人ではなく、真の神を知る親族から迎えなければならない。また、結婚するにあたって、イサクは神の約束の地カナンから離れてはならない。この神の厳命に妥協はない。しかも人や物に頼らず信仰をもって果たさなければならない。遠い道のりを経てアラム・ナハライムの町にたどり着くと、僕は井戸辺で祈った。「水を汲みに来る娘に、『水を飲ませて下さい』と乞う時、私ばかりではなく、ラクダにも水を供する者こそ、あなたの選ばれる者として下さい」。祈りが終わらないうちに、ナホルの子ベトエルの娘リベカが現われた。彼女は祈ったとおりのことをした。僕はベトエルの家に招かれ、アブラハムの命を受けてイサクの結婚相手を探しに来たこと、神が祈ったとおりにリベカと出会わせて下さった

Pastor
2月4日


創世記22章12節
み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 ******* アブラハムの信仰生涯のクライマックスは、彼にとって最大の試練となった、このイサクの奉献である。試練は、あやまちや罪に対する神のさばきや処罰ではない。その根底にあるのは神の愛である。私たちの信仰が高められ、成熟するために与えられるものである。とは言うものの、わが子を祭壇の上に置き、刃物をふり下ろし、殺すということが果たしてできるだろうか。わが子が病で床に臥し瀕死の状態にあれば、自分が代わりたいと切に思う。アブラハムは、神に「イサクをささげよ」と言われた日の「翌朝早く」(3節)、イサクを連れモリヤの山に向けて出発した。目的地に着くまで3日間を要したという。日を待たずに決断したアブラハムの潔さ以上に、3日間を耐え忍んだ信仰と勇気に感心する。彼の心中には様々な思いがよぎり、葛藤にさいなまされたにちがいない。モリヤの山にたどり着き、いよいよ祭壇の上に

Pastor
2月3日


創世記19章16節
彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。 ******* ロトとその家族の住む、退廃した町ソドムとゴモラを、「これから滅ぼしに行く」と聞いたアブラハムは、「その町に十人の正しい人がいても、その町を滅ぼすのですか」と言って主に喰い下がった。すると、主は「その町に十人正しい人がおれば、その人たちのために町を滅ぼすことはしない」と約束された。ところが、その町には、十人すら神を畏れ正しく生きようとする人がいなかった。19章は、ソドムとゴモラの滅亡が描き記されているが、それに先立って、ロトとその家族をその町から脱出させられたことが記されている。アブラハムのとりなしの祈りを聞かれ、ロトとその家族に主の御手がさし伸べられたのである。ところが、二人の娘婿は戯言と受けとめ、そこにとどまった。ロトもまた、そこに築いた財や富を惜しむ心があったのだろう、ためらい、一刻を争う時にもかかわらず躊躇したのである。この時点で、主は彼らをあきらめ、置き去りにされても致し方がなかったが

Pastor
2月2日


創世記18章32節
アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。 ******* 強い陽射しに陽炎のゆらぐ昼下がり、三人の旅人がアブラハムの宿営に訪れた。主ご自身と二人の御使いである。サラの出産が一年後に迫っていることを予告すると、彼らはソドム、ゴモラに向けて発った。見送るアブラハムに、主はソドム、ゴモラへ下される神の審判の計画について明かされた。何故、極秘の神の特命が明かされたのか?それは、甥のロトとその家族が居住していたこともあったが、本当の理由は18-19節にある。アブラハムは何のために神に選ばれ、カナンに遣わされたのか?それは彼とその子孫が救われ、正しい道を歩むためであったが、そればかりではない。近隣の人々が、さらには全世界の人々が彼らと同様に救われ、神の祝福にあずかるためである。神がアブラハムに期待したのは、ソドムとゴモラの町が滅びることのないようにとりなし祈ることであった。自己のためだけに終始する信仰は辛く息苦しい。他者のための祈

Pastor
1月31日


創世記17章1節
アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。 ******* アブラハム夫婦に嫡子(ちゃくし)が与えられるという神の約束(15章)をいただいても、サラは子を産まなかった(16:1)。彼らはどこまでも信仰に立つということができず、世俗的・人間的手法で子を得ようとした。その結果、夫婦の関係は最悪の状態となり、ひとりの人を死に追い込む事態までひき起こした。キリスト者から信仰を取ってしまったら、ただの手に負えない罪人である。アブラハム86歳の時である。それから13年が経って、99歳になったアブラハムの前に主は現われて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」。信仰の煮えきれないアブラハムに対して、主ご自身が信仰の仕切り直しをさせ、彼を新たな段階、すなわち聖化に至らせるみことばだった。99歳の老人に向かって、「神にならい、人間として完全な者になれ」とは誰も言わない。ここは「わたしの前に歩み」というただし書きが大事である。「人の前に」ではなく「神の前

Pastor
1月30日


創世記1章5-6節
そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。 ******* アブラムが、ゲドルラオメルの連合軍を撃ち破り、無事に甥ロトとその家族を救出した後に、主は「アブラムよ、恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」(1節)と語られた。それに対して、アブラハムはどんな祝福を受けようとも、自分に子供がいないということに空しさを感じていた。経済的に祝福され、約束の地を受け継いだとしても、それを全く血のつながりのない者が相続しなければならない、その無念さを主に打ち明けたのである。神に本音で向かい合う時に、神もまた本音で本気で応えて下さる。「あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」(4節)と主は言われ、アブラハムを外に連れ出されて「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はこのようになる」と言われたのである。東京の夜空は、星が見

Pastor
1月29日


創世記13章9-12節
全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。 ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。 ******* アブラムとロトはそれぞれに富み、多くの家畜と雇人を持つようになった。6節には「彼らの財産が多かったため、共に住めなかった」とある。しばしば雇人の牧者同士で家畜の水や牧草をめぐって争いが起ったのである。争わずに済むように、アブラムはロトと別れることを決意した。ロトも独立するだけ財力を持ったからである。別れるにあたって、アブラムは甥のロトに好きな方の土地を選ばせた。ロトは叔父アブラムを実の父のように慕い、彼に伴ってカナンの地に来た。アブラ

Pastor
1月28日


創世記12章13節
どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。 ******* 激しい飢饉に見舞われ、アブラムの一行はエジプトに下った。そこで一つの問題が起った。妻が美しかったことである。これはアブラムに仕える僕からの入知恵だったのではないか。エジプトの王パロは美しい女性がおれば召し抱える。夫がおれば、その命はない。だから「妻ではない」と言って自分の方から妻を差し出す。そのとおり、妻サライはパロに召し抱えられた。アブラムは妹と偽ってパロに妻を差し出したのである。アブラムは死を免れたが、妻の心に夫に対する不信と深い傷を残したのではないか。差し出したことでパロから厚くもてなされ、多くの家畜と奴隷を受け取った。どんな気持ちでこれを受け取ったのだろうか。主なる神は、即座にパロとその家に疫病をくだし、さばかれた。その真相を知ったパロは「なぜ妻を妹と偽ったのか」と責め立て、妻サライはアブラムのもとに返された。 キリスト者は信仰と不信仰の狭間に揺れ動く。行き詰まりを経験し痛い思いをしなが

Pastor
1月27日


創世記12章5-8節
アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。 ******* アブラムは高齢の父テラを連れて、ウルを出てカナンをめざしたものの、ハランにさしかかった時、これ以上父を連れて旅を続けることは無理だと判断し、しばらくそこに駐留した。その後、テラは205歳で生涯を終え、再びカナンをめざし、ついにカナンにたどり着いたのである。ところが、そこには原住民のカナン人が住んでいた。約束の地を与えると言われながら、そこには気兼ねなく住める、安住の地はなかったのである。その後、アブラムとその一行は土地を転々とし寄留の

Pastor
1月26日


創世記12章2節
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。 ******* 子がなく、すでに老齢になっていたアブラムに、主なる神は「あなたを大いなる国民とする」と言われた。事の成り行きに身を任せた生活をしていたら、想像も及ばない約束の言葉であるが、主を信じてどこまでも主に従ってゆくなら、きっとそのとおりになると信じられるものとなり、その主の約束の言葉は実現してゆく。そして、主が賜わる祝福は私たちのうちにとどまることなく、私たちは周囲の人々を祝福してやまない、「祝福の基」となるのである。主から受けた祝福と恵みを惜しみなく分け与える者は、さらにいっそう主の祝福と恵みにみちあふれる者となる。

Pastor
1月24日
bottom of page
